初めての癌から2年目の1999年4月にやはり前年同様に、S.M大医局から派遣?された研修医あがりと思しき若いN医師に変わり、前に書いたローテーションで治療を受け、大過なく1年が過ぎ、2000年4月にまた研修医を終えたばかりと思しきA医師に変わりました。私の知る限り少なくてもここ3年間はS.M医科大出身者なので、今度の担当医師も同じ流れじゃないだろうか?と思い込んでしまいました。半年ほど経過した頃、予てから治療を受けたいと思っていたヘリコバクターピロリ菌の除去治療が保険適用になり、其の治療を受けたい旨申し出たところ、「○○さん胃が悪かったっけ?」と云われ唖然としました。赴任以来、半年間に及び胃の薬(ガスター、ムコスタ、セルベックスの3種類)の処方箋を書いていたのに其れは無いだろう。数多く患者を扱っているから誰に何を処方したかを覚えていないのは無理も無いが、カルテを確認しろよ!!。悪く無かったら治療したいと常識的に云うか?。私は検査の方法を尋ねた。ピロリ菌の確認方法は内視鏡で組織を採取(し培養法他の検査方法)する方法と、UBT(尿素呼気試験)や血清抗体測定法などの簡易試験があり、其れを尋ねたのです。すると、どこかに電話してなにやら確認している様子に呆れてしまい、どうせ来年になれば、また新しい先生が来ることだと思い、其の時はピロリ菌の治療を見送りました。早くあと半年過ぎないかな~と思いながら過ごした1年でした。
2001年4月に入り例年の人事異動通りなら他の医師に替わっている筈なので、どんな担当医かな?と興味津々でしたが4月始めての定期診察は何と前年同様A医師ではないですか。あと1年もすれば替わるだろうと思ったのが私の浅はかなところで、翌年も、其のまた翌年も交代無く何と丸5年した翌年には医長の肩書きがつき、7年目には消火器内科副部長という地位まで出世し、現在も私の担当医です。2002年10月のエコー検査でS8に(癌と)疑わしいモノが見つかり、CT検査の結果、疑いは更に強まり、MRI検査をして最終判定しようと言うことになり、MRI検査の画像にはエコー検査やCT検査で確認された同じところに鮮明に白く映っているでわありませんか。A医師は画像を背にして腕組みし押し黙った儘でした。私はその場の雰囲気から何か喋らないといけない感じで思わず『間違い無いですね』と発してしまい、A医師 はうなずくばかりでした。手術はその後遺症でこりごりだったし、もし手術の後遺症で苦しんでいる時にまた再発でもしたら精神的に耐えられないので、他の治療法の選択肢は無いかと尋ねたところ、K医師の出身大のH病院でラジオ波治療をやっていると言うので『ラジオ波治療はまだ保険適用になっていないでしょう』と問い返すと『保険適用外だが従来からあるマイクロ波療法の治療費で施術をして貰える』と聴き、一も二も無く飛びつき「すぐ紹介状をお願いします」と頼んだところ、快く引き受けてくれ、また大学同期の消化器科の先生にも話してくれた様子でした。此の1件でA医師に対する不信感が信頼感にやや変わりました。ややと表現したのは、此の頃でも次回の予約表を呉れるのを忘れたりする、うっかりミスがたまに有ったからです。紹介状とA医師から借りた画像を手に、11月の初旬に早速担当医師の診察日に伺いカルテにK医師名が書いてあったので本人と思い込みました。エコー検査は当日行い、CT検査とMRI検査を11月中に無理やり押し込んで貰い12月中には治療を受けたい旨、お願いしましたが、K大H病院の担当医K先生本人ではなく、S.K病院のA先生の前述の同期生が代診だったことが始めて分かり治療の日程は後で連絡という事になり、のちに入院日は1月8日と決まりましたが、S.K病院のエコー検査から日にちの経過がかなり気になりました。
退院後2年以上は前述の通りあばら骨付近の引き攣れ感と胃付近の痺れるような何とも形容し難い違和感で労働意欲が全く湧いてこないのです。といって経済的余裕などは話のほかで、当時は同市内のY台に母親と1DKを2戸借りて住んでいました(1戸\58000円)が次弟が立て替えて呉れた入院医療費の還付金も生活費や治療費に使ってしまう有様でした。私は平成4年に事業が破綻し、全負債額の5%程度を返済できただけでHCVの発見、治療という次第で自力返済(健康人でも普通の人が飲まず食わずでもまず返済は不可能な額です)の道は全く閉ざされ、商法上は時効ですが、此の時点では民法上は時効のハザマの時期でした。取立てに来る人種は金額的には負債全体の1%にも及ばない額ですがそれぞれの事情が有るのでしょう。こちらは時効が確定するまでは逃げの一手しか方法がありませんので、現住所の2DK家賃5万円のアパートに引越し、ひっそり時効の日を待つ日々でした。 退院後のフォロ- アップは転院前のS.K病院に戻り、前に話したS.M病院の医局から派遣?されたI医師が担当医となり1年間お世話になりました。此の当時の治療は強ミノ注射40mlが週3回、グリチロリチン3錠/3回/D,他にガスター等数種の胃薬に睡眠導入剤のハルシオンで、検査は毎月、採血し2ヶ月に1回エコー検査4ヶ月目にCT検査、6ヶ月目にエコー検査、8ヶ月目にCT検査、10ヶ月目にエコー検査、12ケ月目にMRI検査といった感じのローテーションで丸4年半続きました。エコー検査やCT検査を受け、次の診察を受けるまでは裁判官の判決を待つような心境でした。肝機能検査は種々有りますが、HCVで一番肝機能値をみる指標になると思われるGPT(ALT)の推移を資料が有る範囲で見てみますと、健康診断で要精研と指摘された時が110IU(単位)、以下IUは省略。98年(手術した年)7月ー47、99年7月ー87.2000年5月ー53、2001年5月ー50、2002年5月ー75、2003年5月ー61,2004年5月ー76,2005年5月ー81,2006年5月ー52、2007年6月ー45,2008年1月ー67と大体45~87の間で推移しています。がこのGPT値は肝硬変が進行すると逆に減ってきますので何時までも肝機能の指標とはなりえません。私はチャイルドビュー分類に照らし合わせて自分の肝硬変の重症度の目安(この方法は古い判定方法かどうかは知り得ません。)となる、血清ビリルビン(黄疸の指標)、アルブミン(血管内の水分を調整し、此の数値が基準値から極端に下がると水分が血管から漏れ出し所謂腹水が溜まる)に、アンモニア値(肝性脳症の指標)、血小板数(血液凝固因子でプロトロンビン時間に関係する)等を病院から貰う簡易分析表で特に注目して見ております。 話は変わりますが、今年の1月14日の月曜日(休日)朝9時半頃起きたとたん、同居の母親が救急車を呼んでくれ、と云うので聴いたところ、昨夜と今朝の血圧が高く脈も多いと言う。左手が少し痺れる、ゆえに救急車を呼んでと云ったのだそうですが、意識ははっきりしているし、そんなに急を要する程度とは見えない。40年位一緒に住んでいるので容態が異変とは感じ得なかったので「其の程度では呼べない」と云った所、不貞腐れてしまいかかりつけ医の診察日の「明日まで持つか分からない、死ぬかも知れない」と言う始末で、困り果て、三日に便秘でお世話になったS.K病院に問い合わせたところ、内科の救急には対応していないと言う事でウェルネスセンターを紹介して貰ったが、(血圧の上昇は強い腰痛のストレスの所為と思われたので)総合病院の方が良いと判断し、119番に事情を話したところ、救急車手配しますといって貰い車に運んで暫くしてやっと引き受け病院が見つかり、私は自車で向かいました。本人が納得する様に一通りの検査をお願いし、結果何処にも異常は認められませんでした。本人は異常無しと言う事で機嫌は良くなりました。歳をとると子供帰りするとよく言いますが、正にそう感じた1日でした。 *前にも述べましたが(今後もそうですが)私の医学的コメントは私の浅薄的知識に基ずくもので、医学会の所謂”定説”では有りませんので其の点は充分ご承知置き下さい。
手術の第一夜の就寝時に予想したとうり痛みが最高頂になり、ナースコールで呼び痛み止めを頼むと、これは何時もの事なのですが、形だけの筋肉注射を打ってくれますが殆ど効いたためしが有りません。プラセボ効果を期待した何かの薬ではと疑いたくなる程効かないのです。弱い“痛め止め"に違いは無いのでしょうがどうせまた痛みを訴えられて結局は本当に効く、つまりモルヒネを打つ事になるのだから。 私は間も無くまたナースコールを押し耐えられない痛みを訴えたところ、若い宿直医が着ましたので『本当に効くやつを打ってください』と懇願したところ、『分かりました』と返答してくれて、今度は本当に効くやつを打ってくれました。決して自慢になる話ではありませんが其れまで麻酔をかけて手術した事が4回有り経験的に学習している訳です。私は痛みに対し弱いタイプかもしれません。ほかの方が1回目の痛み止めで済む方もいるのでしょう。この本当に“効くやつ”打って二,三十秒後から痛みがスーと引き1分後にはあの苦痛は夢、幻だったんじゃなかったかと思う位に気持ちがいいのは経験した方は忘れないでしょう。昔からこの経験からモルヒネに走り中毒になった人は数知れない位だそうです。 しかし、個人差は有るでしょうが数時間は天国気分で間も無くまた地獄に堕ちるのです。覚醒した後はじっと時の経過を待つしか有りません。 痛みと痰がからみ呼吸の苦しみにひたすら耐えるのみです。自分で痰が上手く出せないでいる時に若い看護婦が隣のベッドに来て何やら作業し始めた時、『痰を吸引して下さい』と頼んだところ、“マジかよ”と云われ 作業が終えたら遣ってくれるのかなとひたすら待っていたがシカとされました。看護婦さんには全体的には尊敬の念を持っていますがこの病院は例外に感じました。 さて歩行訓練の件を話し忘れていましたね。実は手術の翌々日の朝(つまりモルヒネを打って貰い数時間で覚醒後は全く寝れずに朝になりました。昨日云われた歩行訓練を思い出し遣る事もないので初めは部屋の近辺を歩いていましたが、寝不足が続いていた割りに調子が良かったので、ドレン管2本に尿管と其々のドレン袋及び点滴剤1式の浴衣姿でエレベーターで2階下の売店に新聞を買いに行ったところを誰かに見られたらしく其の日の回診時に若い担当医に歩く範囲を当分はナースステーションあたりまでと制限されたのでした。 2日目も3日目も殆ど眠れない日が続き4日目のテレビを見ていた時にベッド上でタバコの灰を灰皿に指でトントン払っている自分にハッとした。入院と同時に禁煙していたので始めはニコチン中毒の禁断症状かなと思った。私はかなりのヘビースモーカーで若い頃(といっても50歳くらいまで)は酒とタバコの無い人生は考えられなかった程でタバコは1日2箱程で飲む時は3箱ほどすっていた。酒の方は前述の通り吐き気がひどくなると同時に段々と体が受け付けず自然に飲めなくなった。が、タバコは続けていた。辞める意思など全く無かった。(後にこれも辞めるのですが)
冷静に考えてこれはニコチンの所為で無くて睡眠不足に拠る幻覚だったのではと思います。睡眠の悩みは入院中の大きな課題でした。私は20代から約40年に亘ってこれに苦しみ続いております。原因は多分、10代に遡ります。小学5,6年から中1にかけて、新聞配達をやっていました。朝早いので、帰校後に夕飯まで居眠りをしました。中2から高3にかけては夜遅く迄勉強にかこつけて深夜まで起きていました。結果、帰校後に眠くなりまた夕食時迄一眠りします。高校は工業高校だったのですが、大学進学を目指し真面目に勉強はしていたのです。当時は全国共通試験はあったのかも知れないが認知してませんし、ましてや偏差値など無かったので自分の実力を計る物差しが無かったので何と志望校は国立の、ある特殊な学科で4次試験迄あり毎年15倍前後の倍率のところだったのです。4次試験のうち実技試験があり、其の習得の為の専門校に新聞配達のアルバイトをしながら夜間に通う毎日でした。こんな生活ですから睡眠は細切れでもう20才までのうち半分はまともに通しで7,8時間の睡眠を取る事は幼少時を除いて余りありませんでした。この時期の睡眠の取り方が後に睡眠障害をもたらしたものと思っています。私の睡眠障害は多岐に亘りまず入眠障害、途中覚醒(その後中々値付けない)、早朝覚醒、睡眠リズム障害などです。入眠後深い睡眠から浅い睡眠に移行したあたりで動物(ひと)にとって重要な役割りを果たす成長ホルモンが生成され、壊れた細胞の修復や、免疫機能の増進等の作業がおこなわれるのらしい時に目覚めて眠れないと言う事は切除した肝臓の修復や細胞が遺伝子通りに修復されるかにも多大な影響があった事と思われます。 話がいささか脱線しましたが、こんな日々を過ごすうちにドレン管や尿管ははずされ抜糸(といってもホッチキスですが)も済んであとは退院を待つばかりです。術後は睡眠の問題を除きほぼ順調に経過しました。そんなこんなうちに退院の日取りが5月17日と決まりました。だが胃付近の痺れた感じ(つまんでも感覚が無い)や引き攣れ感は相変わらず 続いていたので退院するのもなんとなく心細く感じたものです。退院の日にナースステーションに挨拶に行きましたが、カウンター付近にいた看護婦さんが唯1人挨拶に応じてくれました。検査入院した相模原のS.K病院はカウンター付近だけではなく作業中の看護婦さんたちが手を休めてカウンター付近に集まり転院して手術して早く元気になって!!と激励してくれエレベータを待っていた時先程いなかった看護婦さんが私を見つけ、遠くから大きな声で○○さん頑張ってくださいね!と励ましてくれましたが、病院によって送る態度も随分違うものだなと思いました。帰りは行きと同じくバスと電車を乗り継ぎやっと34日ぶりに我が家に帰ってきて、生きて帰れた喜びが沸々と湧き上がり、改めて夕刊T紙に感謝した次第です。 此の項おわり
愈々、手術の朝を迎えた。良く眠れるように祈ったのだったが、何時もと同じ様に“寝た"という実感は余り無かった。午前9時からの手術なので15分くらい前に病室をでた。手術室に入り台に移され、手術着を剥ぎ取られ、膝上から首近く迄隈なく消毒され、背中を丸めるようにと云われ、麻酔注射を打たれ、『○○さん、手術が終わりましたよ』と言う女性の甲高い声に意識が戻ったが、一瞬、無意識に起き上がろうともがいたらしく『手術が終わったばかりだから動いちゃ駄目』と先程の甲高い声で“ああ~手術だったんだっけ”とおぼろげ乍思った。集中治療室ではないがナースステーションに隣接して特別治療室があり、其処で一夜を明かす様子だった。其の部屋に移されてうとうとしていると長兄、次兄そして次弟と思しき顔をみたような気がしたが、現実なのか、前に骨折して意識不明から醒めた時の夢を見ているのか、正に『夢か幻か』の状態でした。昼に麻酔を掛けられ、病室は暗闇状態なので時間の経過も判らず、麻酔が切れ掛かって痛みは増し、前夜も寝不足なのに今日はもっと眠れそうに無い。おまけに私のベッドは医療関係者(特に看護婦)の通り道らしく、ペタペタと音させ乍ら、しかもベッドの角附近に何人もの人が強く当たって平気で通り過ぎる無神経さに苛立ちながら、早く朝がこないかなと待ちわびる悲惨な手術の夜となりました。翌朝の十時頃やっと病室に戻れたときは、狭くてもこっちの方が余程ましだな~と一人ごちた次第です。術後の痛みは継続しているが今夜半が痛みのヤマだろうと経験上分かるので時間の経過を待つしかない。喫煙暦が長いので痰が絡んで息苦しい(事前に痰の出し方のコツを教わったのだが、うまく出せない)し、右の耳が殆ど聴こえなくなった。(前から難聴気味だったが、暫く様子を見て耳鼻科を受診しよう)夕方、看護婦さんが『○○さん、そろそろ歩行訓練に向けてベッドを起こし、身体を起こして徐々に立ち上がるようにして明日には病室を歩けるようにしてください』と言われたのにはビックリしました。少なくとも2,3日は横になりっぱなしかなと思っていたのです。昔と違い、一般病棟に戻れた患者は翌日には歩かせるのが回復の度合いに大きく関わることを知り、自分の医学的見識の低さに情けなくなりました。退院後は図書館に通ってもっともっとHCVや癌の医療関係は勿論、食べ物や生活習慣病が持病に及ぼす影響に付いて多面的に勉強しようと心新たにしたのでした。(当時はパソコンを持っていなくてインターネットで調べられる環境に無かったのです)
此の時期は一度の癌の経験者はインターフェロンの保険治療は受けられず、自費治療を受けるには数百万も掛り個人差も有るようですが副作用も強く、しかもHCVが陰性になる確率は2aで40%1bでは10%程度との事なので、貧乏人としては自身の全知全能を傾け、肝炎の進行を如何に遅らせ、肝臓癌の再発を遅らせるかが大きな課題となりました。 ~以下次回に続く
平成10年4月6日、私は入院に必要な最小限の荷物を両手に、電車とバスを乗り継いで11時頃着いた。受付で6階の北病棟に行くように指示され向かう途中に転院前の担当医のO先生と出会った。O先生は3月で辞めて大学附属病院に戻る事は本人から聞いていたので驚きは無かった。後で判ったのだが先の病院の後任は同大出身者でそのまた翌年も同じだった。いずれの先生方も研修医を終えたばかりという感じの若手だった。私の知る限り(少なくても3年は)同大の医局と提携関係にあったと思われる。話が逸れましたが、ナースセンターに行き担当看護婦さんに病室に案内されて驚いたのは何と8人部屋だった事です。其れまで何度か入院暦があったが、多くは4人か6人の差額料無料のベッドだったのでカーテンを閉め切ると狭さが強調され圧迫感があった。ベッドヘッドに担当医の名前が3名書き記されていたが、一番上は前に外科外来の担当医で、後で判ったのだが2番目が実質上の担当医で研修を終えて間もない感じの若手で3番目は研修中という感じでした。初めての夜はなかなか寝付けなかった。20年来の睡眠障害のうえ、生活リズムが変わったのだから当然ですが、事前に睡眠導入剤のハルシオンを頼んでおいたが前の病院では0.125mg1錠を処方してくれていたのだが、こちらは其の半量の錠剤だったので前と同じものをと依頼したところ何と『今は作っていない』という返答に唖然としたものです。子供だましみたいなその場凌ぎの嘘をつかれるなんて。同薬は未だに大概何処の内科でも処方されているのです。0.125mg錠が無ければ2錠出せばいい事だと思いませんか?何とか眠りに付いたのは2時頃だったでしょうか。しかし、やっと眠りに付いてそう時間がたたないうちに看護婦に起こされたのです。揺り動かして起こし、転落防止用の柵?を自分でセットしろと怖そうな顔をして云われ、本当は抗議したかったのですが堪えて指示に従いました。事前に注意されていたのなら仕方ない事ですが、昼に一通りの説明事項には無かったし、もし有ったとしても普通の看護婦さんは自分でそっと差し込んでくれるんじゃないでしょうか。私は一旦目覚めると普段でもどんなに寝不足でも寝付けなくなってしまうのです。しかも其の意地悪看護婦の仕打ちに腹腸が煮えくり返っている訳ですから。とうとう起床時間がきましたが、思いもかけない不愉快、不機嫌な朝を迎えたのでした。朝一番の回診時に担当医に夜中の看護婦の事を話したが、苦笑いが帰ってきただけでした。なので、本人を見たら直接文句を言ってやろうと思いましたが、半分寝惚けていて其の看護婦の顔が良く覚えていないので、文句の言いようも有りませんでした。初日からこれじゃな~と1ヶ月以上の入院生活が思いやられた次第です。
転院後も前の病院でやったCT検査やMRI検査、胃の内視鏡検査他、種々の検査が行われた。入院患者の場合は必ずしも検査の日程がきっちり決められていない事も多々或る様で外来患者や他の入院患者の空いた時間に押し込む事もあるような感じだった。前の病院から画像を借りて提出したのだから何ヶ月も経過している訳でも無いのに何故、何度も同じ検査を繰り返しやるのか其の時点では納得いかなかった。借りてきた画像をコンピュータに取り込むなりコピーするなど出来るだろうにと安直に思った。
第一に経費の問題、其れにCTやMRIは造影剤を投与するが、一時的にせよ肝臓に負担が掛るしCTの場合は放射線も浴びる。たとえ1回の放射線量は微量でも私は骨折以来100回位浴びているので極力避けたい気持ちが有る。MRIの場合は造影剤に多量の鉄分がふくまれていて、此の鉄分が活性酸素と結合して癌のイニシエーターになるという説も有る。従って肝臓病患者は鉄分の過剰摂取は避けたほうがいいらしい。しかし良く考えてみたら病状は刻一刻と変化している。あれこれ詮索したがこれは致し方ないのだ。
検査で大学の附属病院で出来れば避けたいものが有る。其れは胃の内視鏡検査です。不慣れな研修医に当たる確率が高く大げさに言えば、医学に貢献する位の気持ちで受ける事です。一般の医療機関では専門の検査技師や慣れた内科医が検査に当たるケースが多いので余り苦痛を感じません。私は予想通り?研修医にあたり、側に指導医が付いていてあれこれ指示しながらやるのですが、胃壁に何回も当たりながら十二指腸附近を抉られた時は思わず『うぉ~』となりました。後に他の大学病院の内科医に『ピロリ菌の除去治療を受けたい』と申し出たところ、『S.K病院の方が内視鏡に慣れているからそちらの方がいいですよ』と言われた事からも察せられると思います。話が逸れてしまいましたが、そうこうしているうちに手術日が決まりました。日にちは定かで無いが4月中旬だったと思います。術前日に看護婦さんに言われる前に剃毛し、臍の掃除用に看護婦がオリーブオイルを持って来たので其れも自分で遣りますと告げ処理も済み、夕食は取れなく点滴になるので其の前にシャワーを浴びて準備万端。あとは少しでも長い時間眠れるように祈るばかりでした。 *当ブログ上の医学に関する記述は素人の浅薄な知識であり、間違いや思い違いも多々あるかもしれませんので、其の点はご高配下さい。もし明らかな間違いはご指摘頂ければ幸甚です。 ~次回に続く
前の診察から半年後の翌年1月下旬、予約していたエコー検査が近づいた或る日、今迄のクリニックの患者に対する対応に強い疑問が湧いてきていたので別の病院も決まっていなかったのですが、キャンセルの電話を入れたところ、『大事な検査で受けないと後悔するような事になるかもしれませんよ』と応対され、仕方なく『其れではと予定通り検査願います』と返事をしました。
エコー検査の結果、肝臓の右葉の下方(S6)に怪しい影が認められるので、これからCT検査検査をしましょうと言われ、すぐに検査し間も無く診察室に呼ばれました。院長の後ろにCT画像が並んでいましたが、院長は其れには全く触れず、以前治療法を質問した際、治療法は『無い』と強い調子で言っておき乍インターフェロンの話をし始めました。が、私はその間、画像のエコー検査で指摘されたモノを懸命に探していました。素人なりに勉強したのですが、肝臓を八つに区分し大まかな位置を特定しているようです。そしてS6と思しきあたりに周りの色より濃い小さい円形状のものが見えたのです。癌とは其の時点では断定出来ないが疑いが濃厚なのは専門医ならずとも歴然。なのに説明しようとしない医師、説明を求めない患者。誰がどう見ても異常に思えることでしょう。医師が何故説明しないのか?
私は説明の有る、無しに関わらずどうせこの先は他で受診するのだからどうでもいい、という気持ちでした。しかしCT検査を勧めて居乍ら結果について一言も無いのは只の金儲けで医者の風上にも置けない。
いつか天罰でも喰らえ!! 帰り道は癌の恐怖より、こんな悪徳医師が何も問題視されず、しかも繁盛している事に言い知れぬ怒りを感じたのでした。
翌月早々、いろいろ検討した結果、市北部で最大のベッド数500以上のS.K病院で診て貰う事に決め消化器内科を受診した。担当医はインターン上がりと思しき二十代半ばくらいで、無口で温厚な感じの先生だった。S○○クリニックには勿論紹介状を依頼しなかったので、受診に至る顛末を詳細に話したが、CT検査画像の異常は敢えて話さずにインターフェロンの治療を受けたいと申し出し、其の日にエコー検査をしたところ、前と同様S6に異常が認められたので検査入院となりました。 入院日(2月12日)は姪の結婚式の日だったので未だに覚えています。CT検査やMRI、肝生検等の結果、悪性の腫瘍(癌)だったのですが、始めは患者本人に告知せず、家族(と言っても母親だけですが)に来て貰えないかというので、『その様な事を急に話したら年寄りなので気が動転して良くないので私がうまく話すので自分に告知して欲しい』と申し出、やっと本人に告知という次第でした。
其の病院には当時、肝臓癌の手術体制が整っていなかったので(現在は生体肝移植も出来るようになりました)担当医の出身大学附属病院で手術と決まり、受け入れ側の体制が整うまで1ヶ月以上あるのでその間に癌細胞の増殖を防ぐ為と肝臓には沢山の血管が走っているので手術時の参考にするといういみあいもあったのでしょうか、鼠蹊部の動脈からカテーテルを患部まで挿入して、ファルモルビシンという抗がん剤を患部に長く留まる性質を持つリピオドールと共に投与し、転院を待っていました。其の病院は神奈川県のK市に在り小田急線の複数の駅からバスの直通便がある位だから、病院の規模も大体想像出来る事と思います。入院前に一度外科外来に行くように云われ、行きましたが、只再び癌宣告されただけで帰って来ました。しばし落ち着かない日が続いた或る日、入院日が4月6日に決まりましたの電話で『愈々か』と何故か身震いした記憶が残っています。 ~次回に続く
私がC型肝炎を知ったきっかけは丁度11年前の2月頃、勤務先の年1回の健康診断で肝機能値に異常有りという事で要精検と指摘された事です。普段、之といった自覚症状は無かったのですが、後にもしかしたらあれは肝機能悪化のサインだったのでは?と思われる症状が二つ有ります。一つ目はひどい吐き気です。当時は十数年来の胃潰瘍で痛みが半端なく、普通の痛みは背を丸めてうずくまる感じだと思いますが、じっとして居られず熊のように部屋中、歩き廻っていた事も有りましたが其れに加えて吐き気が出て日増しにもよおす時間も長くなり、其の最中は地獄で拷問てな感じでした。しかし、丸1日中ということは無く其れだけが救いでした。治まるとあの地獄の苦しみは嘘の様にすっきりと治まり、其れを待って食事を取る毎日でした。仕事にも影響が出てきてこれが原因で此の年(平成9年6月)に半ば自分の意思で半ば使用者側の要望で警備員の仕事を辞めざるを得なくなったのです。二つ目は紫外線過敏症が極端に進行したことです。元々色白の方で陽に焼け易かったのですが、30分位で鼻の先や頬が赤くなり、それ以上に焼けると痒くて眠れない程でした。前述のとおり、吐き気は胃潰瘍の所為で、紫外線過敏症は年齢の所為と思い込んで、指摘された精密検査は失職した経済的事情も有り数ヶ月受けずにいましたが、私が今、存命できている重大なきっかけになるものに出遭ったのです。 それは娯楽記事中心の夕刊紙のT紙で、「C型肝炎」の特集記事で、連載の第1回目でした。当時、定期購読紙が無かったので度々夕刊T紙をコンビニで買っていました。T紙はプロレスや風俗記事、競馬予想、政治評論家の菊池氏の永田町(国会)関係の硬い記事等バラエテーに富んだ新聞で私はファンでしたが、まさか当時、マスメディアにあまり大々的に取り上げられる事の無かったC型肝炎が掲載されるとは微塵だに思いもしなかったので、正直、T紙の間口の広さというか、ジャーナリズムスピリッツに感服した記憶が有ります。HCVの知識が全く無かった私は連載期間中欠かさずコンビニ通いし、むさぼるように繰り返し読みました。
内容的に云えばC型肝炎の概要から始まり、肝炎や肝硬変、肝臓癌の検査方法や治療法、先に予想される合併症と其の対策、予後の見通し等で、今、沢山出回っている肝臓病に関する著作物とにたようなものでしたが、当時の私は読み進む程に肝炎の恐ろしさを感じ、これはのんびりしていたら大変な事態になると、やっと重い腰を上げ、胃の薬を処方して貰っている近所の入院施設の無い個人病院で検査を依頼し(平成9年7月頃)、1週間後に来院との事でした。私は昭和47年(当時27歳の時)バイク事故で両大腿骨と左手首付け根のとう骨骨折の大怪我を負った際と手術時に大量の輸血をしていたのでHCVの確立の高いのはある程度予測出来ていて覚悟はしておりました。結果はHCV陽性との事。一応エコー検査をと勧められ、結果は血管種らしきものが有るが心配ないでしょう、6ヵ月後に再エコー検査をしましょうと言われ、帰宅して気付いたのですが、肝炎の薬が処方されていなかったので次回の胃の診察の際に其れを問うと院長の強い調子で『無い』の一言でそれ以上質問の意欲が失せてしまいました。たしかT紙の記事にはインターフェロン(入院施設が無いので此処では無理なのは承知していた)やグリチルリチン、他の肝庇護剤、強ミノ等の治療薬が有る筈なのにS○○クリニックの看板通り、胃腸病以外の病気の説明や薬の処方を何故してくれないのか、それならエコー検査も他で受けるように云って呉れるべきではないか等と不愉快不満足な気分で帰って来ました。今住んでいる町(相模原市)は越して日も浅いので正直言ってどの病院に診て貰ったらいいのか判らなかったので、次回のエコー検査だけは受ける事にしてその間に新たな病院を探そう。先ずはHCVと判明して、治療の道が開けた事に感謝しよう。精密検査を受けようと後押ししてくれたT紙さんに感謝しよう。本当に心から『有難う御座いました~お蔭様で今も普通に生活出来ています』 ~次回に続く