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医療

2008年7月11日 (金)

父親の思い出 ⑤

左大腿部の再手術の経過は順調に進みました。35年前の記憶ですので多少の記憶違いが有ると思いましが、ギブスをはめている左足の特に膝から下の部分が痒くてたまらず、先生に訴えたところ、膝附近の部分を切り取ってくれました。其処から、竹の菜ばしを入れて掻いたときの気持ち良さは今でも鮮明に覚えています。その1ヵ月半後位に松葉杖をつき、先に手術した右足でベッド脇に立つように云われ、事故以来7ヶ月振り位に立ってみましたが、眩暈がしてすぐベッドに腰掛て、何度か繰り返す内に眩暈も治まり、ベッド上の視点と立ち上がって見渡す視点の違いは僅か、1メートル位なのに、立って見る人間の本質を取り戻した所為か、先に希望の光が見えた感じを喜びました。其れから間も無くギブスを外され、徐々に左足にも体重をかけながら松葉杖で歩き始めました。左足の膝関節はかなり痛い思いをしながら、何度も繰り返し繰り返し曲げる訓練をしましたが、余りにも固定していた期間が長かったので、70度くらいが極限の曲がる角度となりました。(正座は勿論、足を組んでも左足を上にするとチョット混んだ電車などでは他人の膝附近に当たったりするので、組めません。ですが、後に運転教習所でトランスミッション車に乗り、クラッチを踏んだ時は、それ程窮屈さを感じませんでした。)先生が手術前に説明されたように、3,5cm程短くなっていましたので、松葉杖を両手に持って歩く分には跛行が目立ちませんが、普通の杖だとかなり体が左右に揺れていましたが、ある程度の筋力が付いてきたら多少は軽減されました。其の後間も無くして退院し、其の病院から200メートルも離れていない母のアパートに同居し、週1回、多分肝炎治療の注射だと思いますが、1年ほど通院しました。此の頃の私が如何に自分の病気に無関心だったかが窺い知れることでしょう。退院して間も無くして、私達の住んでいる直ぐ近くの雑居ビルの工事をしていた父親は、仕事帰りに寄って晩酌をしていったり、たまに、其のビルの中にある小料理屋やスナックなどに私を誘って呉れたりして貰いました。後々考えるに、父親と外で2人きりで飲んだのは兄弟中で私だけだと思われます。普通の杖で歩けるようになった頃に、父が看板に水道工事店の募集が出ていたと教えてくれたので、早く自立の道をと考えていた私は、自宅から150m程の近場で通勤も楽なので、職種に関係無しに応募を決め、面接に行き、その場で採用され、翌日から通勤することになりました。仕事の内容は、上下水道工事の申請図面や道路工事を行う際の警察に提出する道路許可申請の図面の作成や申請書類の作成が取敢えずの、私の仕事と云う事でした。図面を書くことは工業高校の時に専門科目のなかで唯一100点近くの点数を貰ったもので、好きで、得意な分野でした。此の製図というものは普段の勉強は全く関係無く、教科書の図面をトレースしたり、教科書の図面を拡大して描いたりするだけのものです。但し、若干の根気と繊細さと空間判断力は必要です。あと、面接時に3ヶ月は研修期間で、3ヵ月後に給料の見直しをするといわれた記憶が私には有りました。が此の事が一番大きな原因で、此の会社は半年後に辞める事になるとは予測もしませんでした。    ~次回に続く

2008年6月 4日 (水)

NK細胞で移植後の肝癌防ぐ

正常な肝臓にある強い抗癌作用を持つナチュラルキラー細胞(NK細胞)を培養 投与することで、肝臓癌で臓器移植を受けた後の患者で、再び肝臓癌が出来るのを防ぐことに、広島大の大段秀樹教授(外科学)らが成功した。肝臓癌患者に移植を行った後、体内に残るがん細胞で、再びがんができる場合がある。                         
 大段教授らは2年前、移植用の肝臓に通した後の保存液から、強い抗癌作用を持つNK細胞を発見。2日間培養し、肝臓癌を殺す能力高めたNK細胞の投与を移植患者に始めた。      
 その結果、2000~2006年に移植を受け、NK細胞を投与されなかった患者42人のうち4人に再びがんができたが、細胞を投与した14人には現在、がんはできていない。     
 培養したNK細胞の表面には、肝臓がんを殺す働きを持つたんぱく質が多数生成されるという。   
 また、肝臓がん患者の7割以上がC型肝炎だが、培養したNK細胞は肝炎ウィルスの増殖を抑えるインターフェロンを作り出す働きも持つ。大段教授らが移植後の患者にNK細胞を投与したところ、何もしない場合と比べ、ウィルスの量を一時100分の1まで減らすことが出来たという。      
                     (6月1日付け読売新聞より転載)          
 此の記事に対する私の見解:NK細胞を投与した患者は14人で期間は未だ2年間、一方、投与しなかった患者は42人で期間は延べ7年を比較すると、統計学的には比較対照のバランスに欠けていると思いますので、もっと長いスパンでの検証が必要では無いでしょうか!?。ウィルスの量も一時的な要素も窺がわれ、ウィルス量は多いよりは勿論少ないに越した事は有りませんが、0(陰性)にならないと大きな期待は持てない感じがしました。移植患者さんの研究も大切な事だと思います。が、移植出来ない肝癌患者が圧倒的に多い訳で、此の研究を一般の肝がん患者にも役立つような研究も、是非とも早急に着手して頂きたいものです。

2008年5月20日 (火)

私の睡眠障害は何故直らないのか? ③

其の大きな原因の1つが私の若い頃からの睡眠習慣に有ると思います。 私は小学6年の時から中学2年までの3年間朝5時に起きて新聞配達をしていました。帰校後は朝早いのでどうしても眠くなり、2時間位昼寝をして(母親は外に働きに出ていましたので)それから夕飯を炊いていました。中3の時は高校受験勉強の為、配達は辞めました。高校は普通高校に行きたかったのですが工業高校しか許可して貰えず仕方なく電気科通信課程に進学しました。中学時代はラジオやアンプ等を新聞配達で稼いだお金で業界雑誌で見て秋葉原から部品を取り寄せ組み立てたりしていましたが単なる趣味の域で、殊更に此の学科に拘った訳ではなく仕方無しに此の学科を選択したのですが、どうしても大学に進学したくて高校2年の時に(父親は東京に職を求めて東京暮らしだったので)母親に泣き付き、普通高校に転入若しくは退学して高卒検定試験から大学入試を受けたいので、認めて欲しい。大学はお金が無いので国立に的を絞って頑張るからという私の説得に母親も根負けし、2年の夏休み前だったと記憶してますが当時の担任の先生に話をしに云って呉れ、折角入ったんだからまた1からやり直すのは大変なので、後1年半通学さえすれば専門課程は全て0点でも卒業させてくれると言われたと母親がいうので、私も考え直して従来通りに通学しました。しかし、受験に関係の無い授業中はひたすら受験科目の自習に勤しみ、先生方も一言も文句も言わず、専門科目は全て0点でした。そんな先生達の温情に応えるべく私も必死でした。此の頃は弟達も成長し、ご飯炊きも弟達がしてくれる様になったので私は帰校後に夕飯まで寝て其れから受験勉強に未明まで精を出す毎日でした。何とか卒業させてもらい、其の年は自信が無く受験しませんでした。大学に入るまでも入れた場合も全て自力でやることが条件でしたので、アルバイトを探さないといけないので全国紙を買い、新聞配達のアルバイト先を見つけて電話し採用されました。(当時のアルバイトの双璧は新聞配達と牛乳配達でした)私が目指した大学は国立1期の美術系の定員15人で四次試験まで有り競争倍率15倍という難関でした。が其の当時は全国共通一次試験とか偏差値等という物差しが無かったのが後で考えると私には不幸な結果をもたらしました。
話は戻りますが、此の新聞配達は田舎で考えていた時間よりはるかに早起きし(2時過ぎ頃)、7時ごろまで配り終えて食事のあと10時まで仮眠し、其の後夕刊到着の3時半頃までは集金や勧誘の仕事が有り、夕刊配達後は寮の食事を取る人もいれば食事する時間が無く予備校や専門学校にそれぞれの事情で行動する訳です。私は当時中野区に住んでいて、杉並区西荻窪に有る東洋美術学校に週2回通い、2次試験のデッサンに備え、其れまで本格的にデッサンの勉強はしてなかったので基本を学ぶ為に1年だけ通いました。其れにデッサンに通っていると1次試験の勉強時間も無くなるので2年目はブルータスの石膏像を買って練習してました。あっ!1年目の試験結果は不合格でした。2年目も3年目も失敗(全て1次試験で失敗)し、やっと自分の能力の程度に気づいたのでした。合格組はIQが自分と30位は違いそうだし、受験勉強の取り組み方も間違っていました。初めから3回だけの挑戦と決めていたので、目標を失った私は次の目標を探しあぐねてずるずると27歳でバイクで大事故を起こすまで新聞配達の仕事に従事していたのです。
12歳(成長期)から27歳までの長期に亘る変則的な(細切れの)睡眠の取り方、之が後の睡眠障害に影響を及ぼしている事は間違いの無い処でしょう。あと一つ考えられる原因は私の時間に対する神経質な反応です。新聞配達時は若し30分寝坊したら大変な事でした。読者の中には何時何分まで配達しますと約束して契約する方も当時は結構いましたので、自然に時間に敏感になるのです。私は今でも午前中の用事があると決まって目覚ましが鳴る以前に目覚めてしまいます。之も嘗ての習性が身に付いて離れないからだと思います。以上思い付く儘に私の睡眠障害に付いて考えてみましたが、皆さんはどの様にお感じでしょうか?      
最後に参考までに睡眠薬の(持続性による)種類を製品名で表示しておきますので何かの参考にして頂ければと存じます。                       
 超短時間作用型:*ハルシオン、アモバン、マイスリー                 
 短時間作用型:デパス、レンドルミン、リスミー、ロラメット          
 中間作用型:ベンザリン、ユーロジン、エリミン、ロヒプノール、*サイレース
 長時間作用型:*ドラール、ベノジール、ダルメート、ソメリン
*印は私が服用中のものです

2008年5月19日 (月)

私の睡眠障害は何故直らないのか? ②

K.H病院退院後はAクリニックでもベンザリンを追加処方してくれるようになりました。つまり、ハルシオン0,25mg、サイレース2mg、ベンザリン各1錠の服用となる訳ですが、之らを1度に服用しても何れも中間作用型以下のものなのでどうすれば朝まで継続的に眠れるかが焦点となります。3,4時間後に一度目覚めるのは睡眠剤服用時に水を飲むので、生理的に排尿の為と言う事は致し方も無い点ですが、問題は其の後に問題なく再入眠出切るかどうかなので始めにハルシオンと中間作用型のどちらかを服用し、再入眠時に残りの1錠を飲んだりして効果を試しました。以前と比べれば睡眠満足度は多少は得られましたが自分の求めているものとはやはりかけ離れていましたが、この組み合わせで3年位は続けました。2年前の5月の定期診察の或る日に担当医が『睡眠(状態)はどうですか?』と訊ねた(いつも訊ねられるのですが毎回眠れないというのも億劫なのでまーまーですといっていました)ので其の時は『自分の理想に近い睡眠が取れたらすごく嬉しいんですけどね』と話した処、『わかりました』と言ってベンザリンをドラールと言う長時間作用型のものにあっさりと変えて呉れました。予想外のまた、私が長年に亘り望んでいた薬を処方して貰えるなんて。私は心の中で万歳!!と叫びました。ドラールに変えた所為で途中に生理現象で起きても間も無く再入眠出来る様になり、1ヵ月後の血液検査でAST、ALT共45になりました。此の数値は私にとって嘗て無い良い数値で睡眠(特にノンレム睡眠時の成長ホルモンの分泌や壊れた細胞の修復、免疫力の活性に大きく関係しているそうで)が体に及ぼす影響力を再認識した次第でした。ですが最近は精神的には私の今迄の人生で最も安定していると思われるのですが、満足のいく睡眠が取れなくなって困っているのです。                    
其の大きな原因の1つが私の若い頃からの睡眠習慣に有ると思います。私の小学6年の時(当時は田舎に住んでいました)大して大きな家でもなく、(6人兄弟の8人家族でした)部屋数も余っていた訳ではないのですが、大工の父親が41歳の時血を吐き1年余り入院した所為も有ったので、多分家計の少しでも足しになればと貸したのだと思いますが、一部屋を新聞販売店の出張所として貸したのでした。配達員も募集してたので小遣い稼ぎをしたかった私は小6ながら一応家主のせがれと云う事で採用され、隣町手前までの民家のまばらな地区の担当の配達を朝5時ごろ起きて50件余りを2時間掛けて配っていました。話はチョット逸れますが、1ヵ月後に700円位の初給料を貰い、其の半分で近所の呉服屋(当時は町に洋服屋はありませんでした)でエプロンを買い、母親にプレゼントしました。母は始めは驚いていましたがニッコリして『ありがとう』と受け取ってくれました。あの時の母の笑顔は未だ鮮明に覚えています。 次回に続く

2008年5月18日 (日)

私の睡眠障害は何故直らないのか? ①

長らくご無沙汰しておりました。この間にご訪問頂いた方々に対しご期待に沿えず申し訳なくお詫び申します。原因は睡眠不足による無気力に有りました。今日はこの睡眠の問題に付いて考えたいと思います。私はこの30年来、睡眠障害で悩み続けて来ました。この病気は多岐に亘り、入眠障害(睡眠リズム障害)中途覚醒、早朝覚醒などで酒を飲んでいた時分は之が入眠剤代わりでした。晩酌は日本酒換算で約5合程度だったがこの量で寝付けない時は更に飲み足したが、私は酒に強い方で中々酔いつぶれず、意識が無くなる程には相当量(殆ど急性アル中に近い量)を必要としました。が意識を無くした事は数回程で家で晩酌の増量では血管内の水分量が増えて血圧が上がり、逆効果である事に何度か繰り返して気付きました。何とか眠りに付いても3,4時間後には目覚めて、それから朝方まで悶々として6時頃に睡魔に襲われ、僅かの時間の2度寝の繰り返しでした。こんな調子なので十時頃寝たら1時過ぎには目覚め、朝方迄の悶々時間が長くなるので、就寝時間は殆ど12時過ぎですがすぐ入眠する事は稀な事でした。   
この当時は睡眠薬の服用は常用性とかボケ易くなる等と巷間で云われていたので考えた事は有りませんでした。睡眠薬が精神科で処方される事すら知らなかったのです。初めて睡眠薬(所謂導入剤ですが)を処方して貰ったのは10年前の2月に今もミノファーゲン注射他で世話になっているS・K病院に肝臓癌の検査入院をした際にハルシオン0,25mgを1錠処方して貰い服用後は多少の入眠状態の改善はみられました。手術でS.M病院に転院した際は半量の0,125mg錠に成分減量された際のエピソードは『転院、そして手術①』で述べましたが、毎日ひどい寝不足で幻覚症状まで出た程でした。退院後S・K病院に戻ってすぐに0.25mgを2錠にして貰い2年位は其の状態でしたが、手術の後遺症も癒えてきたのでアルバイト探しを始めましたが、通院治療の条件をクリアしながらのバイト探しは中々見つからず、たまに有っても応募者多数で50過ぎの病気持ちが入り込む隙間は無く、うつ状態になった所為か其れまで考えてもどうしようもない事と意識的に避けてきた、会社倒産時の債権者に対する罪悪感に苛まれ眠れない日々の連続で、此の儘だと初めての癌(再初の癌発見前の数ヶ月間もひどい不眠で、其の後の再発時の多くは発癌前数ヶ月間の不眠が有りました)と同じ状態なので癌が再発し兼ねないと思い、S・K病院の近くのAクリニックという精神科を受診しうつ剤2種とハルシオンとレンドルミンを処方して貰い暫く服用するうちにうつ状態は改善されてきましたが睡眠の方は相変わらず不満足状態だったので其れを訴えたところサイレース1mg錠に変えてくれましたが其れもたいした変わりも無く、度々お願いするのも気が重い訳ですが思い切って薬を変えるか増量をと願い出たところサイレース2mg錠に変更して呉れました。がそれでも症状の改善は殆どありません。其れは当然のことでこれらの睡眠剤は長時間作用型ではなくレンドルミンは短時間型、サイレースは中間型といわれる持続性の短いものだったからです。ラジオ波治療でK.H病院に入院中に担当研修医に不眠で悩んでいるので此処の精神科で診て貰いたい旨を訴えた処承知して呉れて、翌日看護助手に案内され精神科に連れて行かれ、数分待つと名前を呼ばれ入った部屋は普通の診察室とは雰囲気の違う感じで診察の先生もなんとなく偉い地位の感じでしたが、私はこのチャンスを逃したらいけないと思い釈迦に説法を承知の上で必死になり不満足な現況の睡眠のデメリット、肝臓や免疫力に及ぼす悪影響、裏を返して云えばレム睡眠とノンレム睡眠が両方得られる謂わば長時間作用型の薬の所望をしたのだが、ベンザリンという中間作用型の薬が追加されただけだった。
 ~以下次回に続く

2008年5月14日 (水)

前回のS8部分のCT検査結果に付いて

前回(1/7)のS8の異変が認められた部分のCT検査の結果を今日の診察で、検査画像をパソコンで拡大画像で見せて貰いましたが、何と前回と画像に変化が認められず、治療入院を覚悟して行きましたが、ホッとしました。何時もは変異が認められると3ヵ月後にははっきり形に表れるのですが、何故なのか?いずれは形になるのだろうが、先延ばしになる事は治療すれば大なり小なり、肝機能に悪い影響を与える事なので喜ばしい事です。次回のCT検査は3ヵ月後なので、その間は一応癌の事は頭から離れるので、次回のブログは自分が嘗て長期に亘り苦しんだ胃病と現在も苦しんでいる睡眠障害に付いて、マイヘルスに掲載するつもりです。同病で苦しんでいる方も多数居られる事と思いますので、どの程度参考になるか分かりませんが覗いてみて下さい。

2008年5月10日 (土)

ブログのタイトルをHCVの交流記とした訳

7回目の再発を前回お知らせしましたが、皆さん、私は何回くらい再発し、死に至る と思われますか?   分かる訳無いだろうというのが大方の意見だと思います。現時点で私が知っている限りでは計29個の癌を20回にわたり治療した方が最高です。其の方は女性で70台半ばで、現在も普通に生活出来ているそうですから、まだまだ延びる可能性は充分有りそうですね。女性の場合は一般的に云えばタバコは吸わない方が多いし酒も男ほどは飲まないと考えられますね。つまり、ごく一般的な常識から云って、癌を引き起こす(きっかけを作る)原因物質の肝臓癌に於ける二大要素の摂取量は男性より少なく、特に肝臓癌は総飲酒量が大きく関係するという専門医もいますので、男性が此の女性の記録?を抜ける可能性は少ないでしょうね。さて、私のことに戻りますが、今の肝臓の状態から自分の肝臓病の知識を総結集(チョット大げさな言い方ですみません)したところ、あと3回位、欲目で5回、K大H病院の治療記録は12回だとか云っていたから後5回頑張ればタイ記録になるんだがな、などとツイツイ人間の浅ましさ丸出しになるおバカさんなhide-Gなのです。さて、タイトルを「交流記」とした説明をさせて頂きます。初めてインターフェロンの治療を受けようとした時には癌が見つかり、此の当時は癌経験者は保険が適用されません。自費治療には数百万掛り、わたしは1b型の直りにくいタイプなので金無し、直りにくしで断念。2度目の肝癌直後に1度の癌経験者は保険適用となるタイミングの悪さ。此の時点でインターフェロンの治療は諦めたのです。残る道は一つ。HCVのご機嫌を伺いつつ反感を買わないように穏やかな作用の強ミノを週三回静脈注射とグリチロンと途中からグラケーを服用しつつ、現在、アルブミンはかろうじて基準値の3.8を維持し、血小板は10~11万台ですが、コリンエステラーゼは基準値から大きくダウン。GPT,GOTは共に平均60位。γGTPは75位。こんな感じで推移しています。だらだらと書いてきまして済みません。結論は闘う治療(インターフェロン)からHCVと共生してなるべくHCVの機嫌を損ねない付き合い方ということで交流記とした次第です。                            最後になりましたが事情により、当ブログは今回をもって閉じさせて頂く事になりました。まことに短い期間でしたが、ご訪問有難う御座いました。また、いろいろな情報や暖かい励ましを頂き今後の心の支えにしてまだまだ普通に生きていけるよう頑張ります。HCVで種々の治療の皆様の全快を心よりお祈り申し上げます。またいつか会えるまで~
さようなら

2008年5月 9日 (金)

7度目の再発

2007年4月にS8の塞詮術による治療後は3ヵ月毎にCT検査で経過観察していて、昨年9月3日の検査画像に異常は認められなかったのですが、今年1月7日のCT検査画像に変化が見られました。S8の治療痕の形の変形が認められたのです。つまり、前回の塞栓で死滅せずに生き残ったがん細胞が血管新生に成功したか若しくは偶々、前回の癌に隣接して、新たながん細胞群を形成しつつあるのかは現時点では判明しませんが、癌が再発し、増殖中であることは間違い有りません。4月1日に再度、CT検査し、4月7日の診察日に入院日が判ると思います。              昨年10月中旬頃に10年ぶりに風邪をひき、厭な予感がしていたのです。実は10年前の最初の癌が見つかる2,3ヶ月前に2度も風邪をひいていた過去が有りました。私は普段は風邪には強い方で、巷で流感が流行っていても先ずひかないのです。ですから風邪をひいた時に、10年前の事が頭をよぎったのです。ゲストブックを書いた時(12月11日)も風邪の後だったのでそろそろ7回目が間近かな?と表現したのでした。が、こんなの的中しても嬉しくないですね。

2008年5月 7日 (水)

6度目の再発~3度目の塞詮術

2006年10月に癌の栄養を供給している動脈が特定できず、リピオドールと抗がん剤ファルモルビシンを注入して経過観察していたS8に翌年2月19日のCT検査で12,3mmの癌が確認されました。今回も楕円形状の陰影も濃淡が有る私としては嫌な感じのもので、診察日の2月26日に4月2日(月)の入院で翌日に塞栓治療と決まりました。入院生活のこまごまとしたことは何時もと変わり有りませんので省略いたします。治療は9時半からでした。治療室に向かう途中に私が『前回は割り込みが有って午後に廻されたんだよ』と話しかけたところ、『え~、あれは○○さんだったんだ~、あのような事は初めてだったんですよ』と応じたので、待つのは全然構わないけど2度も痛い注射は此の痩せた身体にゃきついんだよねなどと話すうちに治療室に着き、また痛い麻酔薬を打って治療台に移動した時に治療担当医と思しき人が見えたので挨拶すると『僕ですよ。先生ですよ。』と言うのでよく見てみると担当主治医のO先生で、事前には聞いていなかったので吃驚しました。ごく一般的には放射線科の医師が治療にあたるのでその様な技術も習得していたんだと、チョット驚きでした。アシスタント兼後見役と言う感じで前回、生死にかかわる云々と治療の時間の交代をお願いされたO先生の先輩格のX先生もあとから入室されました。術中はモニターも見えない(病院によっては患者にモニターが見れるように大きな画面のモニターを設置しているところも有る)ので、ふと入室前の看護婦さんの○○さんが初めてだったと言う言葉が妙に気になり、そういえば今迄の人生で余り他人(ヒト)が経験してない事を自分の場合良かれ悪しかれ経験している気がするな。タバコを吸わなくなった2001年9月11日の事が鮮やかに甦ってきた。その日は日曜日で22時半頃1箱の最後の1本を吸い何時もなら明朝一番の一服に備えて必ず近所の自販機で11時前まで行って必ず買っておいたのだが、この日に限り、何故か買いに行こうと思わなかった。そのまま眠りにつき、朝目覚めた時必ず吸いたくなるのだが、何故か強くは身体が要求しない。時折手持ち無沙汰になった時チョットだけ吸いたい気持ちになるが、特に苛立つ事も無く夜になり23時ごろだったろうか。テレビには想像を絶する映像が流れているではないか。私はこれまで禁煙など考えもしなかった。が、世界のあるところでは自分の意思に無関係に一瞬にして尊大な多くの生命が奪われ、非業の最期を遂げている人々を見て、もっと自分の命を大切にしなければという思いが強くなったせいか、そのまま苦も無く禁煙出来たのでした。隣町に住む弟達が遊びに来た或る夏の日に冷房の為締め切った部屋でタバコを吸い始めたので思い切って注意しました。俺もお袋もタバコを吸わないので副流煙が周りに及ぼす影響は大きいので今後は室内で吸わないで欲しい。で、ないと俺の禁煙の意味が無くなるのでと言ってからは吸わなくなった。そんな事を考えているうちに「○○さん終わりましたよ」と声を掛けられ、我に返りました。一週後CT検査の結果、翌日退院となりました。CT画像を見た時に前回のS5の画像のような塞詮術の見本のようなモノとはチョット違った感じだったので『寛解』と言う感じでしょうかねと話しかけたところ、『うん』と言う感じでO先生は応えました。いずれにしても前回は特定できなかった動脈が特定でき塞栓の道が開けたと云う点で進歩したという評価だと思います。

2008年5月 6日 (火)

5度目の再発~2度目の塞詮術

前回の塞詮術で現在肝臓癌の治療の主流となっている肝切除、ラジオ波、塞栓術の3大?治療を経験したわけで、野球ならトリプル.クラウンといったところですが、これは自慢にならない体験であとはどの治療法を何回積み上げていくか、何回まで癌治療に肝機能が持ちこたえられるかが今後の焦点になりそうです。         前回の治療後の3ヶ月過ぎにS8(右葉の上部肋骨側)の中心部付近にCT検査で異変が見られ、エコー検査では肋骨が障害になり、画像では確認できず、暫くCT検査で経過観察をしていたのですが、其れまで主治医のK先生が辞めることになり、私の後任医師が誰になるか話題になっていると言う話をS.K病院のA医師が、K大H病院消化器内科に勤務する大学の同期生から聞いたとA医師が診察時に話して呉れました。前の主治医K先生は辞める前に後任は2度目のラジオ波治療の際の研修医だったO医師が担当しますと伝えてくれ、自分は都内に有るJ大病院(の消化器内科の部長クラス若しくは、J大の教授か准教授に所謂、ヘッドハンテングされた様子です)に転勤になると表現していました。                                     後任のO医師は研修医時代の私の担当だった時、退院前のCT検査の画像に患部から背中に掛けて白い帯状のものが映っていて、担当
主治医は夏休みで留守で自分で退院の決断をなかなか出来ずにいて、(決断を)私が催促した経緯が有りました。2度目のラジオ波治療の記事では省略しましたが原因はラジオ波治療後にエタノールを2cc注入したものが局部から溢れて肝臓の皮膜伝いに背中に廻った炎症痕と推測されます。そんなエピソードもあり、また人柄もよさそうな青年医師でしたが、患者として最初の診察はお世辞にも合格点にほど遠くむしろ呆れた位でした。「以前はどの位の間隔でCT検査していましたか?」との給ったのです。間隔は時と場合に拠るので一概に言えるものではないのは今迄学んできただろう。1人前の医師になったのだからケースバイケースで自分で判断しなさいと言う意味で私は聞こえないふりでシカトしてました。自分で言うのも可笑しいですがそんなに意地悪な人間じゃないつもりです。暫く考えた後3ヵ月後にCT検査をすることになりました。      次回の診察時からは人が変わったように、全く1人前の医師に見えるようになりましたが何が彼を変えたのか知る由は有りません。 3ヶ月毎にCT検査の度に前述のS8にはっきりとは写らないのですが造影剤が所々にうっすらと見えていたので、前がん症状という感じだったのでどうせなるなら早くはっきりした形で出て欲しいと思う憂鬱な気分で過ごしていました。人の心理は不思議なものですね。癌と判定されれば却ってすっきりするのです。とうとう8月の中旬のCT検査で形を現したのです。しかもS5(右葉下方の腹側)に仲間を引き連れて。S5の方は全く予想外でした。もしかしたら、CTスキャンの5mmの死角に2,3mm位のものが出来ていた可能性も否定できません。大きさはどちらも10mm位でS5の方は同心円状のまん丸に近い形で陰影も濃く出ていましたが、S8の方は楕円形がかって、陰影も濃淡があり、余り癌相?が良くない感じを素人乍感じました。今回もラジオ波は適用出来ない所なので、塞詮術でやるのですが、この方法は局所がある程度大きくなって栄養を供給している動脈を特定する必要があるので治療時期の読みが微妙なのです。(肝臓癌は初期は動脈、門脈から貪欲に栄養を貪る)O先生が治療時期に迷っている様子なので、冗談めかして私の過去の経験からS5は2ヵ月後位に20mm位の塞詮術に丁度いい大きさに成長しているのではないでしょうかと話したところ、先生も経験豊富な○○さんがいうのだからそうしましょう、とその場で入院日は10月16日に決まりました。O先生には経済的な事情も気楽に話せ、其れまで金曜日に入院し翌週月曜か火曜日に治療というパターンだったのが月曜入院の翌日治療とか、高額療養費の還付金に無駄が出ないように月をまたがない治療期間の設定等をお願いしたら、快く応じて頂き此の日が入院日と設定された背景も有りました。どの先生もこちらの意向どうりだったら嬉しいんですけどね。手術当日は9時半の治療開始に準備万端整えて治療室に入室後に左肩に麻酔薬を打たれ、手術台に移る直前にスタッフ全員がいなくなりました。何が起きたんだろうと思って数分後に、私が始めて此の病院の外来に来た時のK先生の代診をした先生(S.K病院のA先生の同期でたまに此のブログにも登場する先生だが名前は知りません)が現れ、「まことに申し訳ないですが生死に関わる患者さんがいてすぐ処置をしないといけない状態ですが他に処置する場所も無いので譲ってもらえませんか?」と頼まれたので「私は結構ですよ」と言い、同日午後2時半から仕切り直しとなりました。            今度は時間どうりに始まり先ずS8から取り掛かったのですが、栄養を供給している動脈が特定できず、抗がん剤ファルモルビシンとリピオドールを注入し、S5に移りましたがこちらは患部の直近までカテーテルが入り、塞詮術の見本のようにうまくいった様子でした。1週間後にCT検査の結果、退院となりました。S5はきれいに死滅したようですがS8の方は抗がん剤のせいで治療前の陰影もより薄くなったが癌が消滅した訳ではないので経過観察しながら、塞栓の機会を待つしかないようです。

2008年5月 5日 (月)

4度目の再発~始めての塞詮術

前のラジオ波治療の5ヶ月後、2005年1月にエコー検査でS6に異常が見つかりCT検査の結果12mm位の癌が見つかりました。S6は肝臓の右葉の下方背中側を大まかに言うのですが、局部はS5とS7とS8に接する感じで右葉のほぼ中心に位置していて、ラジオ波治療の難しい位置とのことで、処置の方法は塞詮術を選択せざるを得ませんでした。塞詮術なら紹介元のS.K病院でも治療可能なので、此処に留まるべきか、この際帰るべきか悩みましたが、結局治療の選択肢の多いK大H病院に留まり、3月に鼠蹊部からカテーテルを入れて塞詮術を受けました。此の時点で肝臓癌の治療はK大H病院で診て貰い、癌を除く肝臓病全体の治療や他の内科疾患はS.K病院とはっきり分割した形になりました。一番最初の癌の時に鼠蹊部からカテーテルを入れて血管造影の経験があるので、全く不安はありませんでした。前の通り自分で剃毛し看護婦さんはチェックするだけで、手間を掛けさせないように何時もやっています。6時間はカテーテルを挿入したほうの足は動かさないようにし、6時間後に食事もとれ、12時間後はベッド上に90度起きれます。24時間後にベッドの周りを歩いてみて異常が無ければ普通の生活に戻れます。この治療の欠点は局所再発率が1割前後あることです。しかも局所再発した場合はこじれる事もあるらしいのです。入院期間は概ね、10日間位ですから、ラジオ波治療と入院日数や治療費も似たような感じです。此の頃から癌の再発に怯えて暮らす事は無くなりました。癌の再発に慣れた所為ではなくHCVに付いて多くの媒体を通して理解というか、認識が深まった結果と言う感じがします。                                          入院する度に宅配メールのアルバイト(此のバイトは何十箇所も面説に行きやっと採用されたところなのです)を休ませて貰うのが此の3年続いていて、其の申し入れをする方が癌の宣告より気が重い感じさえする今日この頃と言う感じでした。

2008年5月 4日 (日)

3度目の再発~2度目のラジオ波治療

2003年1月の再発以来、2ヶ月おきにエコー検査とCT検査のローテーションで経過観察をしていました。この間にビタミンK2(商品名=グラケー)を新たに処方して貰って現在も飲みつずけています。此の薬はもともとは骨そしょう症の治療薬として普及していたものですが、佐賀医科大の臨床研究で肝臓癌患者に二群に分け投与したグループは内服しなかったグループに比して、三分の一の再発率に減少された。これとは別に東大消化器内科でも肝臓癌への有効性に付いて2002年後半の読売新聞の記事を読み、前回の治療時に病棟薬剤師に相談した薬がこんなに早い時期に主治医のK先生から服用を勧められたのは正直に言って驚きでした。副作用も無いと当時の新聞も報じていたので、即座に承諾した次第です。2004年6月末頃のCT検査で前回(S8)に隣接した右脇腹の腹膜に近い部分に癌が認められ、8月初旬に前回同様にラジオ波治療を受けました。今回は腹膜に近いのでニードル(焼灼用針)の熱で腹膜を火傷しないように生理食塩水を800cc程内臓と腹膜の間に注入しましたが、その影響でやや息苦しい感じでした。術後には勿論注入物を抜くのですが。院内生活やその他は前回同様取り立てて変化は有りませんでした。あっ、そうそう。たいしたことでは有りませんですが、ある日の夕食にじゃがいもが1個丸ごと煮たつもりのものが出てきました。ところが、箸はささらず、噛み付いても歯が立たずで全然食べられませんでした。私はたかが、じゃがいも1個の事ですが、むらむらと怒りがこみ上げてきました。それと言うのも、看護師や研修医の医療従事者の真剣な仕事ぶりや忙しさを毎日観ているので、そのような努力が栄養部のずさんさ、無神経さ、そして何より仕事の緊張感の欠如,等で病院の信用をも失墜させる行為に腹立たしさを感じたのです。早速、献立表の用紙に苦情を書き、配膳の係りのおばさんに栄養部の責任者に来て欲しい旨、伝えるように頼みました。程なくして其の責任者が現れました。私は開口一番『あなたが毒見をしたの?』と思わず言ってしまい今時『毒見』と言う表現は無いだろうと可笑しくなったのを堪えました。『はい、私がしました』と責任者と名乗った女性。私が試食したのは煮えていましたので、と言うので、何百人か何十人分一度に作るか知らないが、大量にしかも丸ごと1個煮たら煮ムラが出来るのは素人でも予測できる事で、管理栄養士たるあなたがそんな初歩的な事に考えが及ばないとは。何故満遍なく火が通るように半分にするとか、半分にすると煮崩れるとかあるでしょうが、口に入らない事には栄養以前の問題でしょう。と,こってり絞り上げ、(今日のことは)今後の課題にして下さい。きつい事を云いましたが他意は有りませんので。と言ってやっと釈放?となりました。翌日、病棟の婦長が昨日の不始末をお詫びに来ました。その後、今日時点で3度程入院しましたが、ジャガイモは大きくて半分切、または四分の一切りで勿論火は充分通っているものが出るようになりました。

2008年5月 3日 (土)

初めてのラジオ波治療 ①

 2003年1月8日(確か金曜日)A.M11:00迄入院手続きを済ませ、其の後にレントゲン検査と耳たぶを切って止血時間の検査後、入院病棟に行き、クラークに挨拶後にベッドに案内され病棟内の案内や説明をうけたのち、担当看護婦が来て1日の院内での行動手順や注意事項の説明を受けました。このK大附属H病院には当時一般患者用の無料ベッドは無く、一番安いベッドで1日6300円でした。保険適用病院には規定数の差額無料ベッドが有る筈なので、その点を入院受付で聞いたところ(無料ベッドは)精神科の患者さんに優先的に提供されていると聴いた様な記憶が有ります。正月草々なので病棟内のベッドは半分以上空いていました。隣のベッドのSさんという方は私より三日前に入院し翌日治療ラジオ波治療を受けたそうです。この方はこのラジオ波治療で極稀に有るニードル(治療用針)に因る火傷で苦しんでいましたが治療した担当医は顔も見せないので、温厚そうな方でしたが誠意が無いと怒っていました。                                             この治療法は正確に表現すると経皮的肝熱凝固焼灼術で所謂ラジオ波治療と云われ、其れまでの諸治療に比べ、優れた点も多く、注目を集めつつ有ったのですが、まだ保険適用されていませんでした。にも拘わらず多くの医療機関が間違いなく治療実績を競っていたと思われる背景には多分、従来から有る治療法のマイクロ波に治療が似ていて、治療機材他1式の治療費が同じ位のレベルだったのではと私は推測します。またレセプト審査機関も其れに気ずいていても暗黙の了解がはたらいていたかも知れません。当時(今でも変わりないと思いますが)全国一の治療実績は東大医学部で、神奈川県では私が今回治療を受けるK大H病院が1位で其の先頭で此の治療に取り組み、医学生や研修医の指導に当たっていたのが、私の担当医でK大講師のK先生だったのです。                                                   翌週の月曜日の午後から治療が始まりました。今回、私の治療は治験治療ということで、治療機材提供メーカーの関係者と思しき人が立ち会っていました。焼灼用の電極針(3種類あり局部の場所や大きさにより使い分ける)や薬品代、術後の1回目のCT検査の費用はメーカーに負担して貰えるというラッキーな面がありました。今回の治療には2種類の電極針(ニードル)が使用されましたが、1本目は2次電極が何本のタイプかは聴かなかったので分かりません(電極は局部に穿刺後開くようになっている)。2本目は通称クールチップ(針の内部を冷却水が循環し一定温度に保ち火傷を防ぐ構造)と呼ばれるタイプで左側にいる看護婦さんが私の右側で治療しているK先生に渡す際に見えたので、『其れはクールチップと言うものですか?』と尋ねたところ『どうして知っているの』とK先生が尋ねたので『(肝臓癌の)酢酸療法を考案された大西先生の著書で知りました』と答えたところ、K先生が何処で見たか尋ねたらしかったのですが右耳の悪い私が返答しなかったので看護婦さんが『何処で見たのと聴いていますよ』と言って呉れたのでS図書館ですと応えました。治療は穿刺時はチョット鈍い痛みが有りましたが耐えられないものでは有りません。1時間半位の治療時間だったと記憶してます。肝生験程度の痛みと言うか、苦痛程度であとをひきません。此の治療法は塞栓術に比べて局所再発が少ないメリットがありますが、デメリットは正常な周りの細胞や熱で壊死する範囲の全ての血管類も傷める事に有るとおもわれます。多少のデメリットは従来のエタノール局注療法や塞詮術をも凌ぐものです。                               ベッドに戻り6時間が経過した頃に寝た儘で食事を取りました。夜間に微熱が有りましたがたいしたことも無く眠りにつきました。1週間後にCT検査の結果で翌日、退院出来ました。入院中は研修医が殆ど主治医のアシスタントをし、主治医のK先生と顔を合わせたのは治療の時だけでした。此の病院の病棟看護婦さん達は総体的に明るく好印象で仕事ぶりも的確な感じでした。此の時は12日間の入院生活でしたが、入院翌日と治療した週末の2日外泊したのでアッという間で時間の経過をあまり感じませんでした。  

2008年5月 1日 (木)

再発に怯える日々 ②

初めての癌から2年目の1999年4月にやはり前年同様に、S.M大医局から派遣?された研修医あがりと思しき若いN医師に変わり、前に書いたローテーションで治療を受け、大過なく1年が過ぎ、2000年4月にまた研修医を終えたばかりと思しきA医師に変わりました。私の知る限り少なくてもここ3年間はS.M医科大出身者なので、今度の担当医師も同じ流れじゃないだろうか?と思い込んでしまいました。半年ほど経過した頃、予てから治療を受けたいと思っていたヘリコバクターピロリ菌の除去治療が保険適用になり、其の治療を受けたい旨申し出たところ、「○○さん胃が悪かったっけ?」と云われ唖然としました。赴任以来、半年間に及び胃の薬(ガスター、ムコスタ、セルベックスの3種類)の処方箋を書いていたのに其れは無いだろう。数多く患者を扱っているから誰に何を処方したかを覚えていないのは無理も無いが、カルテを確認しろよ!!。悪く無かったら治療したいと常識的に云うか?。私は検査の方法を尋ねた。ピロリ菌の確認方法は内視鏡で組織を採取(し培養法他の検査方法)する方法と、UBT(尿素呼気試験)や血清抗体測定法などの簡易試験があり、其れを尋ねたのです。すると、どこかに電話してなにやら確認している様子に呆れてしまい、どうせ来年になれば、また新しい先生が来ることだと思い、其の時はピロリ菌の治療を見送りました。早くあと半年過ぎないかな~と思いながら過ごした1年でした。  
2001年4月に入り例年の人事異動通りなら他の医師に替わっている筈なので、どんな担当医かな?と興味津々でしたが4月始めての定期診察は何と前年同様A医師ではないですか。あと1年もすれば替わるだろうと思ったのが私の浅はかなところで、翌年も、其のまた翌年も交代無く何と丸5年した翌年には医長の肩書きがつき、7年目には消火器内科副部長という地位まで出世し、現在も私の担当医です。2002年10月のエコー検査でS8に(癌と)疑わしいモノが見つかり、CT検査の結果、疑いは更に強まり、MRI検査をして最終判定しようと言うことになり、MRI検査の画像にはエコー検査やCT検査で確認された同じところに鮮明に白く映っているでわありませんか。A医師は画像を背にして腕組みし押し黙った儘でした。私はその場の雰囲気から何か喋らないといけない感じで思わず『間違い無いですね』と発してしまい、A医師 はうなずくばかりでした。手術はその後遺症でこりごりだったし、もし手術の後遺症で苦しんでいる時にまた再発でもしたら精神的に耐えられないので、他の治療法の選択肢は無いかと尋ねたところ、K医師の出身大のH病院でラジオ波治療をやっていると言うので『ラジオ波治療はまだ保険適用になっていないでしょう』と問い返すと『保険適用外だが従来からあるマイクロ波療法の治療費で施術をして貰える』と聴き、一も二も無く飛びつき「すぐ紹介状をお願いします」と頼んだところ、快く引き受けてくれ、また大学同期の消化器科の先生にも話してくれた様子でした。此の1件でA医師に対する不信感が信頼感にやや変わりました。ややと表現したのは、此の頃でも次回の予約表を呉れるのを忘れたりする、うっかりミスがたまに有ったからです。紹介状とA医師から借りた画像を手に、11月の初旬に早速担当医師の診察日に伺いカルテにK医師名が書いてあったので本人と思い込みました。エコー検査は当日行い、CT検査とMRI検査を11月中に無理やり押し込んで貰い12月中には治療を受けたい旨、お願いしましたが、K大H病院の担当医K先生本人ではなく、S.K病院のA先生の前述の同期生が代診だったことが始めて分かり治療の日程は後で連絡という事になり、のちに入院日は1月8日と決まりましたが、S.K病院のエコー検査から日にちの経過がかなり気になりました。

2008年4月30日 (水)

再発に怯える日々 ①

退院後2年以上は前述の通りあばら骨付近の引き攣れ感と胃付近の痺れるような何とも形容し難い違和感で労働意欲が全く湧いてこないのです。といって経済的余裕などは話のほかで、当時は同市内のY台に母親と1DKを2戸借りて住んでいました(1戸\58000円)が次弟が立て替えて呉れた入院医療費の還付金も生活費や治療費に使ってしまう有様でした。私は平成4年に事業が破綻し、全負債額の5%程度を返済できただけでHCVの発見、治療という次第で自力返済(健康人でも普通の人が飲まず食わずでもまず返済は不可能な額です)の道は全く閉ざされ、商法上は時効ですが、此の時点では民法上は時効のハザマの時期でした。取立てに来る人種は金額的には負債全体の1%にも及ばない額ですがそれぞれの事情が有るのでしょう。こちらは時効が確定するまでは逃げの一手しか方法がありませんので、現住所の2DK家賃5万円のアパートに引越し、ひっそり時効の日を待つ日々でした。                                        退院後のフォロ- アップは転院前のS.K病院に戻り、前に話したS.M病院の医局から派遣?されたI医師が担当医となり1年間お世話になりました。此の当時の治療は強ミノ注射40mlが週3回、グリチロリチン3錠/3回/D,他にガスター等数種の胃薬に睡眠導入剤のハルシオンで、検査は毎月、採血し2ヶ月に1回エコー検査4ヶ月目にCT検査、6ヶ月目にエコー検査、8ヶ月目にCT検査、10ヶ月目にエコー検査、12ケ月目にMRI検査といった感じのローテーションで丸4年半続きました。エコー検査やCT検査を受け、次の診察を受けるまでは裁判官の判決を待つような心境でした。肝機能検査は種々有りますが、HCVで一番肝機能値をみる指標になると思われるGPT(ALT)の推移を資料が有る範囲で見てみますと、健康診断で要精研と指摘された時が110IU(単位)、以下IUは省略。98年(手術した年)7月ー47、99年7月ー87.2000年5月ー53、2001年5月ー50、2002年5月ー75、2003年5月ー61,2004年5月ー76,2005年5月ー81,2006年5月ー52、2007年6月ー45,2008年1月ー67と大体45~87の間で推移しています。がこのGPT値は肝硬変が進行すると逆に減ってきますので何時までも肝機能の指標とはなりえません。私はチャイルドビュー分類に照らし合わせて自分の肝硬変の重症度の目安(この方法は古い判定方法かどうかは知り得ません。)となる、血清ビリルビン(黄疸の指標)、アルブミン(血管内の水分を調整し、此の数値が基準値から極端に下がると水分が血管から漏れ出し所謂腹水が溜まる)に、アンモニア値(肝性脳症の指標)、血小板数(血液凝固因子でプロトロンビン時間に関係する)等を病院から貰う簡易分析表で特に注目して見ております。                                        話は変わりますが、今年の1月14日の月曜日(休日)朝9時半頃起きたとたん、同居の母親が救急車を呼んでくれ、と云うので聴いたところ、昨夜と今朝の血圧が高く脈も多いと言う。左手が少し痺れる、ゆえに救急車を呼んでと云ったのだそうですが、意識ははっきりしているし、そんなに急を要する程度とは見えない。40年位一緒に住んでいるので容態が異変とは感じ得なかったので「其の程度では呼べない」と云った所、不貞腐れてしまいかかりつけ医の診察日の「明日まで持つか分からない、死ぬかも知れない」と言う始末で、困り果て、三日に便秘でお世話になったS.K病院に問い合わせたところ、内科の救急には対応していないと言う事でウェルネスセンターを紹介して貰ったが、(血圧の上昇は強い腰痛のストレスの所為と思われたので)総合病院の方が良いと判断し、119番に事情を話したところ、救急車手配しますといって貰い車に運んで暫くしてやっと引き受け病院が見つかり、私は自車で向かいました。本人が納得する様に一通りの検査をお願いし、結果何処にも異常は認められませんでした。本人は異常無しと言う事で機嫌は良くなりました。歳をとると子供帰りするとよく言いますが、正にそう感じた1日でした。               *前にも述べましたが(今後もそうですが)私の医学的コメントは私の浅薄的知識に基ずくもので、医学会の所謂”定説”では有りませんので其の点は充分ご承知置き下さい。

2008年4月29日 (火)

夕刊紙が私を生かしてくれた ⑤

手術の第一夜の就寝時に予想したとうり痛みが最高頂になり、ナースコールで呼び痛み止めを頼むと、これは何時もの事なのですが、形だけの筋肉注射を打ってくれますが殆ど効いたためしが有りません。プラセボ効果を期待した何かの薬ではと疑いたくなる程効かないのです。弱い“痛め止め"に違いは無いのでしょうがどうせまた痛みを訴えられて結局は本当に効く、つまりモルヒネを打つ事になるのだから。                   私は間も無くまたナースコールを押し耐えられない痛みを訴えたところ、若い宿直医が着ましたので『本当に効くやつを打ってください』と懇願したところ、『分かりました』と返答してくれて、今度は本当に効くやつを打ってくれました。決して自慢になる話ではありませんが其れまで麻酔をかけて手術した事が4回有り経験的に学習している訳です。私は痛みに対し弱いタイプかもしれません。ほかの方が1回目の痛み止めで済む方もいるのでしょう。この本当に“効くやつ”打って二,三十秒後から痛みがスーと引き1分後にはあの苦痛は夢、幻だったんじゃなかったかと思う位に気持ちがいいのは経験した方は忘れないでしょう。昔からこの経験からモルヒネに走り中毒になった人は数知れない位だそうです。       しかし、個人差は有るでしょうが数時間は天国気分で間も無くまた地獄に堕ちるのです。覚醒した後はじっと時の経過を待つしか有りません。 痛みと痰がからみ呼吸の苦しみにひたすら耐えるのみです。自分で痰が上手く出せないでいる時に若い看護婦が隣のベッドに来て何やら作業し始めた時、『痰を吸引して下さい』と頼んだところ、“マジかよ”と云われ 作業が終えたら遣ってくれるのかなとひたすら待っていたがシカとされました。看護婦さんには全体的には尊敬の念を持っていますがこの病院は例外に感じました。                                            さて歩行訓練の件を話し忘れていましたね。実は手術の翌々日の朝(つまりモルヒネを打って貰い数時間で覚醒後は全く寝れずに朝になりました。昨日云われた歩行訓練を思い出し遣る事もないので初めは部屋の近辺を歩いていましたが、寝不足が続いていた割りに調子が良かったので、ドレン管2本に尿管と其々のドレン袋及び点滴剤1式の浴衣姿でエレベーターで2階下の売店に新聞を買いに行ったところを誰かに見られたらしく其の日の回診時に若い担当医に歩く範囲を当分はナースステーションあたりまでと制限されたのでした。 2日目も3日目も殆ど眠れない日が続き4日目のテレビを見ていた時にベッド上でタバコの灰を灰皿に指でトントン払っている自分にハッとした。入院と同時に禁煙していたので始めはニコチン中毒の禁断症状かなと思った。私はかなりのヘビースモーカーで若い頃(といっても50歳くらいまで)は酒とタバコの無い人生は考えられなかった程でタバコは1日2箱程で飲む時は3箱ほどすっていた。酒の方は前述の通り吐き気がひどくなると同時に段々と体が受け付けず自然に飲めなくなった。が、タバコは続けていた。辞める意思など全く無かった。(後にこれも辞めるのですが)
冷静に考えてこれはニコチンの所為で無くて睡眠不足に拠る幻覚だったのではと思います。睡眠の悩みは入院中の大きな課題でした。私は20代から約40年に亘ってこれに苦しみ続いております。原因は多分、10代に遡ります。小学5,6年から中1にかけて、新聞配達をやっていました。朝早いので、帰校後に夕飯まで居眠りをしました。中2から高3にかけては夜遅く迄勉強にかこつけて深夜まで起きていました。結果、帰校後に眠くなりまた夕食時迄一眠りします。高校は工業高校だったのですが、大学進学を目指し真面目に勉強はしていたのです。当時は全国共通試験はあったのかも知れないが認知してませんし、ましてや偏差値など無かったので自分の実力を計る物差しが無かったので何と志望校は国立の、ある特殊な学科で4次試験迄あり毎年15倍前後の倍率のところだったのです。4次試験のうち実技試験があり、其の習得の為の専門校に新聞配達のアルバイトをしながら夜間に通う毎日でした。こんな生活ですから睡眠は細切れでもう20才までのうち半分はまともに通しで7,8時間の睡眠を取る事は幼少時を除いて余りありませんでした。この時期の睡眠の取り方が後に睡眠障害をもたらしたものと思っています。私の睡眠障害は多岐に亘りまず入眠障害、途中覚醒(その後中々値付けない)、早朝覚醒、睡眠リズム障害などです。入眠後深い睡眠から浅い睡眠に移行したあたりで動物(ひと)にとって重要な役割りを果たす成長ホルモンが生成され、壊れた細胞の修復や、免疫機能の増進等の作業がおこなわれるのらしい時に目覚めて眠れないと言う事は切除した肝臓の修復や細胞が遺伝子通りに修復されるかにも多大な影響があった事と思われます。                   話がいささか脱線しましたが、こんな日々を過ごすうちにドレン管や尿管ははずされ抜糸(といってもホッチキスですが)も済んであとは退院を待つばかりです。術後は睡眠の問題を除きほぼ順調に経過しました。そんなこんなうちに退院の日取りが5月17日と決まりました。だが胃付近の痺れた感じ(つまんでも感覚が無い)や引き攣れ感は相変わらず 続いていたので退院するのもなんとなく心細く感じたものです。退院の日にナースステーションに挨拶に行きましたが、カウンター付近にいた看護婦さんが唯1人挨拶に応じてくれました。検査入院した相模原のS.K病院はカウンター付近だけではなく作業中の看護婦さんたちが手を休めてカウンター付近に集まり転院して手術して早く元気になって!!と激励してくれエレベータを待っていた時先程いなかった看護婦さんが私を見つけ、遠くから大きな声で○○さん頑張ってくださいね!と励ましてくれましたが、病院によって送る態度も随分違うものだなと思いました。帰りは行きと同じくバスと電車を乗り継ぎやっと34日ぶりに我が家に帰ってきて、生きて帰れた喜びが沸々と湧き上がり、改めて夕刊T紙に感謝した次第です。  此の項おわり

2008年4月28日 (月)

夕刊紙が私を生かしてくれた④

愈々、手術の朝を迎えた。良く眠れるように祈ったのだったが、何時もと同じ様に“寝た"という実感は余り無かった。午前9時からの手術なので15分くらい前に病室をでた。手術室に入り台に移され、手術着を剥ぎ取られ、膝上から首近く迄隈なく消毒され、背中を丸めるようにと云われ、麻酔注射を打たれ、『○○さん、手術が終わりましたよ』と言う女性の甲高い声に意識が戻ったが、一瞬、無意識に起き上がろうともがいたらしく『手術が終わったばかりだから動いちゃ駄目』と先程の甲高い声で“ああ~手術だったんだっけ”とおぼろげ乍思った。集中治療室ではないがナースステーションに隣接して特別治療室があり、其処で一夜を明かす様子だった。其の部屋に移されてうとうとしていると長兄、次兄そして次弟と思しき顔をみたような気がしたが、現実なのか、前に骨折して意識不明から醒めた時の夢を見ているのか、正に『夢か幻か』の状態でした。昼に麻酔を掛けられ、病室は暗闇状態なので時間の経過も判らず、麻酔が切れ掛かって痛みは増し、前夜も寝不足なのに今日はもっと眠れそうに無い。おまけに私のベッドは医療関係者(特に看護婦)の通り道らしく、ペタペタと音させ乍ら、しかもベッドの角附近に何人もの人が強く当たって平気で通り過ぎる無神経さに苛立ちながら、早く朝がこないかなと待ちわびる悲惨な手術の夜となりました。翌朝の十時頃やっと病室に戻れたときは、狭くてもこっちの方が余程ましだな~と一人ごちた次第です。術後の痛みは継続しているが今夜半が痛みのヤマだろうと経験上分かるので時間の経過を待つしかない。喫煙暦が長いので痰が絡んで息苦しい(事前に痰の出し方のコツを教わったのだが、うまく出せない)し、右の耳が殆ど聴こえなくなった。(前から難聴気味だったが、暫く様子を見て耳鼻科を受診しよう)夕方、看護婦さんが『○○さん、そろそろ歩行訓練に向けてベッドを起こし、身体を起こして徐々に立ち上がるようにして明日には病室を歩けるようにしてください』と言われたのにはビックリしました。少なくとも2,3日は横になりっぱなしかなと思っていたのです。昔と違い、一般病棟に戻れた患者は翌日には歩かせるのが回復の度合いに大きく関わることを知り、自分の医学的見識の低さに情けなくなりました。退院後は図書館に通ってもっともっとHCVや癌の医療関係は勿論、食べ物や生活習慣病が持病に及ぼす影響に付いて多面的に勉強しようと心新たにしたのでした。(当時はパソコンを持っていなくてインターネットで調べられる環境に無かったのです)
此の時期は一度の癌の経験者はインターフェロンの保険治療は受けられず、自費治療を受けるには数百万も掛り個人差も有るようですが副作用も強く、しかもHCVが陰性になる確率は2aで40%1bでは10%程度との事なので、貧乏人としては自身の全知全能を傾け、肝炎の進行を如何に遅らせ、肝臓癌の再発を遅らせるかが大きな課題となりました。  ~以下次回に続く

2008年4月27日 (日)

夕刊紙が私を生かしてくれた ③

平成10年4月6日、私は入院に必要な最小限の荷物を両手に、電車とバスを乗り継いで11時頃着いた。受付で6階の北病棟に行くように指示され向かう途中に転院前の担当医のO先生と出会った。O先生は3月で辞めて大学附属病院に戻る事は本人から聞いていたので驚きは無かった。後で判ったのだが先の病院の後任は同大出身者でそのまた翌年も同じだった。いずれの先生方も研修医を終えたばかりという感じの若手だった。私の知る限り(少なくても3年は)同大の医局と提携関係にあったと思われる。話が逸れましたが、ナースセンターに行き担当看護婦さんに病室に案内されて驚いたのは何と8人部屋だった事です。其れまで何度か入院暦があったが、多くは4人か6人の差額料無料のベッドだったのでカーテンを閉め切ると狭さが強調され圧迫感があった。ベッドヘッドに担当医の名前が3名書き記されていたが、一番上は前に外科外来の担当医で、後で判ったのだが2番目が実質上の担当医で研修を終えて間もない感じの若手で3番目は研修中という感じでした。初めての夜はなかなか寝付けなかった。20年来の睡眠障害のうえ、生活リズムが変わったのだから当然ですが、事前に睡眠導入剤のハルシオンを頼んでおいたが前の病院では0.125mg1錠を処方してくれていたのだが、こちらは其の半量の錠剤だったので前と同じものをと依頼したところ何と『今は作っていない』という返答に唖然としたものです。子供だましみたいなその場凌ぎの嘘をつかれるなんて。同薬は未だに大概何処の内科でも処方されているのです。0.125mg錠が無ければ2錠出せばいい事だと思いませんか?何とか眠りに付いたのは2時頃だったでしょうか。しかし、やっと眠りに付いてそう時間がたたないうちに看護婦に起こされたのです。揺り動かして起こし、転落防止用の柵?を自分でセットしろと怖そうな顔をして云われ、本当は抗議したかったのですが堪えて指示に従いました。事前に注意されていたのなら仕方ない事ですが、昼に一通りの説明事項には無かったし、もし有ったとしても普通の看護婦さんは自分でそっと差し込んでくれるんじゃないでしょうか。私は一旦目覚めると普段でもどんなに寝不足でも寝付けなくなってしまうのです。しかも其の意地悪看護婦の仕打ちに腹腸が煮えくり返っている訳ですから。とうとう起床時間がきましたが、思いもかけない不愉快、不機嫌な朝を迎えたのでした。朝一番の回診時に担当医に夜中の看護婦の事を話したが、苦笑いが帰ってきただけでした。なので、本人を見たら直接文句を言ってやろうと思いましたが、半分寝惚けていて其の看護婦の顔が良く覚えていないので、文句の言いようも有りませんでした。初日からこれじゃな~と1ヶ月以上の入院生活が思いやられた次第です。
転院後も前の病院でやったCT検査やMRI検査、胃の内視鏡検査他、種々の検査が行われた。入院患者の場合は必ずしも検査の日程がきっちり決められていない事も多々或る様で外来患者や他の入院患者の空いた時間に押し込む事もあるような感じだった。前の病院から画像を借りて提出したのだから何ヶ月も経過している訳でも無いのに何故、何度も同じ検査を繰り返しやるのか其の時点では納得いかなかった。借りてきた画像をコンピュータに取り込むなりコピーするなど出来るだろうにと安直に思った。
第一に経費の問題、其れにCTやMRIは造影剤を投与するが、一時的にせよ肝臓に負担が掛るしCTの場合は放射線も浴びる。たとえ1回の放射線量は微量でも私は骨折以来100回位浴びているので極力避けたい気持ちが有る。MRIの場合は造影剤に多量の鉄分がふくまれていて、此の鉄分が活性酸素と結合して癌のイニシエーターになるという説も有る。従って肝臓病患者は鉄分の過剰摂取は避けたほうがいいらしい。しかし良く考えてみたら病状は刻一刻と変化している。あれこれ詮索したがこれは致し方ないのだ。                                      
検査で大学の附属病院で出来れば避けたいものが有る。其れは胃の内視鏡検査です。不慣れな研修医に当たる確率が高く大げさに言えば、医学に貢献する位の気持ちで受ける事です。一般の医療機関では専門の検査技師や慣れた内科医が検査に当たるケースが多いので余り苦痛を感じません。私は予想通り?研修医にあたり、側に指導医が付いていてあれこれ指示しながらやるのですが、胃壁に何回も当たりながら十二指腸附近を抉られた時は思わず『うぉ~』となりました。後に他の大学病院の内科医に『ピロリ菌の除去治療を受けたい』と申し出たところ、『S.K病院の方が内視鏡に慣れているからそちらの方がいいですよ』と言われた事からも察せられると思います。話が逸れてしまいましたが、そうこうしているうちに手術日が決まりました。日にちは定かで無いが4月中旬だったと思います。術前日に看護婦さんに言われる前に剃毛し、臍の掃除用に看護婦がオリーブオイルを持って来たので其れも自分で遣りますと告げ処理も済み、夕食は取れなく点滴になるので其の前にシャワーを浴びて準備万端。あとは少しでも長い時間眠れるように祈るばかりでした。        *当ブログ上の医学に関する記述は素人の浅薄な知識であり、間違いや思い違いも多々あるかもしれませんので、其の点はご高配下さい。もし明らかな間違いはご指摘頂ければ幸甚です。     ~次回に続く

2008年4月26日 (土)

夕刊紙が私を生かしてくれた②

前の診察から半年後の翌年1月下旬、予約していたエコー検査が近づいた或る日、今迄のクリニックの患者に対する対応に強い疑問が湧いてきていたので別の病院も決まっていなかったのですが、キャンセルの電話を入れたところ、『大事な検査で受けないと後悔するような事になるかもしれませんよ』と応対され、仕方なく『其れではと予定通り検査願います』と返事をしました。    
エコー検査の結果、肝臓の右葉の下方(S6)に怪しい影が認められるので、これからCT検査検査をしましょうと言われ、すぐに検査し間も無く診察室に呼ばれました。院長の後ろにCT画像が並んでいましたが、院長は其れには全く触れず、以前治療法を質問した際、治療法は『無い』と強い調子で言っておき乍インターフェロンの話をし始めました。が、私はその間、画像のエコー検査で指摘されたモノを懸命に探していました。素人なりに勉強したのですが、肝臓を八つに区分し大まかな位置を特定しているようです。そしてS6と思しきあたりに周りの色より濃い小さい円形状のものが見えたのです。癌とは其の時点では断定出来ないが疑いが濃厚なのは専門医ならずとも歴然。なのに説明しようとしない医師、説明を求めない患者。誰がどう見ても異常に思えることでしょう。医師が何故説明しないのか?      
私は説明の有る、無しに関わらずどうせこの先は他で受診するのだからどうでもいい、という気持ちでした。しかしCT検査を勧めて居乍ら結果について一言も無いのは只の金儲けで医者の風上にも置けない。
いつか天罰でも喰らえ!!  帰り道は癌の恐怖より、こんな悪徳医師が何も問題視されず、しかも繁盛している事に言い知れぬ怒りを感じたのでした。
                             
翌月早々、いろいろ検討した結果、市北部で最大のベッド数500以上のS.K病院で診て貰う事に決め消化器内科を受診した。担当医はインターン上がりと思しき二十代半ばくらいで、無口で温厚な感じの先生だった。S○○クリニックには勿論紹介状を依頼しなかったので、受診に至る顛末を詳細に話したが、CT検査画像の異常は敢えて話さずにインターフェロンの治療を受けたいと申し出し、其の日にエコー検査をしたところ、前と同様S6に異常が認められたので検査入院となりました。            入院日(2月12日)は姪の結婚式の日だったので未だに覚えています。CT検査やMRI、肝生検等の結果、悪性の腫瘍(癌)だったのですが、始めは患者本人に告知せず、家族(と言っても母親だけですが)に来て貰えないかというので、『その様な事を急に話したら年寄りなので気が動転して良くないので私がうまく話すので自分に告知して欲しい』と申し出、やっと本人に告知という次第でした。
其の病院には当時、肝臓癌の手術体制が整っていなかったので(現在は生体肝移植も出来るようになりました)担当医の出身大学附属病院で手術と決まり、受け入れ側の体制が整うまで1ヶ月以上あるのでその間に癌細胞の増殖を防ぐ為と肝臓には沢山の血管が走っているので手術時の参考にするといういみあいもあったのでしょうか、鼠蹊部の動脈からカテーテルを患部まで挿入して、ファルモルビシンという抗がん剤を患部に長く留まる性質を持つリピオドールと共に投与し、転院を待っていました。其の病院は神奈川県のK市に在り小田急線の複数の駅からバスの直通便がある位だから、病院の規模も大体想像出来る事と思います。入院前に一度外科外来に行くように云われ、行きましたが、只再び癌宣告されただけで帰って来ました。しばし落ち着かない日が続いた或る日、入院日が4月6日に決まりましたの電話で『愈々か』と何故か身震いした記憶が残っています。  ~次回に続く             

夕刊紙が私をいかしてくれた①

私がC型肝炎を知ったきっかけは丁度11年前の2月頃、勤務先の年1回の健康診断で肝機能値に異常有りという事で要精検と指摘された事です。普段、之といった自覚症状は無かったのですが、後にもしかしたらあれは肝機能悪化のサインだったのでは?と思われる症状が二つ有ります。一つ目はひどい吐き気です。当時は十数年来の胃潰瘍で痛みが半端なく、普通の痛みは背を丸めてうずくまる感じだと思いますが、じっとして居られず熊のように部屋中、歩き廻っていた事も有りましたが其れに加えて吐き気が出て日増しにもよおす時間も長くなり、其の最中は地獄で拷問てな感じでした。しかし、丸1日中ということは無く其れだけが救いでした。治まるとあの地獄の苦しみは嘘の様にすっきりと治まり、其れを待って食事を取る毎日でした。仕事にも影響が出てきてこれが原因で此の年(平成9年6月)に半ば自分の意思で半ば使用者側の要望で警備員の仕事を辞めざるを得なくなったのです。二つ目は紫外線過敏症が極端に進行したことです。元々色白の方で陽に焼け易かったのですが、30分位で鼻の先や頬が赤くなり、それ以上に焼けると痒くて眠れない程でした。前述のとおり、吐き気は胃潰瘍の所為で、紫外線過敏症は年齢の所為と思い込んで、指摘された精密検査は失職した経済的事情も有り数ヶ月受けずにいましたが、私が今、存命できている重大なきっかけになるものに出遭ったのです。       それは娯楽記事中心の夕刊紙のT紙で、「C型肝炎」の特集記事で、連載の第1回目でした。当時、定期購読紙が無かったので度々夕刊T紙をコンビニで買っていました。T紙はプロレスや風俗記事、競馬予想、政治評論家の菊池氏の永田町(国会)関係の硬い記事等バラエテーに富んだ新聞で私はファンでしたが、まさか当時、マスメディアにあまり大々的に取り上げられる事の無かったC型肝炎が掲載されるとは微塵だに思いもしなかったので、正直、T紙の間口の広さというか、ジャーナリズムスピリッツに感服した記憶が有ります。HCVの知識が全く無かった私は連載期間中欠かさずコンビニ通いし、むさぼるように繰り返し読みました。
内容的に云えばC型肝炎の概要から始まり、肝炎や肝硬変、肝臓癌の検査方法や治療法、先に予想される合併症と其の対策、予後の見通し等で、今、沢山出回っている肝臓病に関する著作物とにたようなものでしたが、当時の私は読み進む程に肝炎の恐ろしさを感じ、これはのんびりしていたら大変な事態になると、やっと重い腰を上げ、胃の薬を処方して貰っている近所の入院施設の無い個人病院で検査を依頼し(平成9年7月頃)、1週間後に来院との事でした。私は昭和47年(当時27歳の時)バイク事故で両大腿骨と左手首付け根のとう骨骨折の大怪我を負った際と手術時に大量の輸血をしていたのでHCVの確立の高いのはある程度予測出来ていて覚悟はしておりました。結果はHCV陽性との事。一応エコー検査をと勧められ、結果は血管種らしきものが有るが心配ないでしょう、6ヵ月後に再エコー検査をしましょうと言われ、帰宅して気付いたのですが、肝炎の薬が処方されていなかったので次回の胃の診察の際に其れを問うと院長の強い調子で『無い』の一言でそれ以上質問の意欲が失せてしまいました。たしかT紙の記事にはインターフェロン(入院施設が無いので此処では無理なのは承知していた)やグリチルリチン、他の肝庇護剤、強ミノ等の治療薬が有る筈なのにS○○クリニックの看板通り、胃腸病以外の病気の説明や薬の処方を何故してくれないのか、それならエコー検査も他で受けるように云って呉れるべきではないか等と不愉快不満足な気分で帰って来ました。今住んでいる町(相模原市)は越して日も浅いので正直言ってどの病院に診て貰ったらいいのか判らなかったので、次回のエコー検査だけは受ける事にしてその間に新たな病院を探そう。先ずはHCVと判明して、治療の道が開けた事に感謝しよう。精密検査を受けようと後押ししてくれたT紙さんに感謝しよう。本当に心から『有難う御座いました~お蔭様で今も普通に生活出来ています』   ~次回に続く

ブログ紹介文

十年前に或るきっかけでHCV陽性と判明。時を同じくして夕刊T紙でHCV特集記事をみてインターフェロン治療を受けようと総合病院を受診、精密検査のCT画像には12mm大の肝臓がんが発見され、担当医の出身医大付属病院で切除手術。癌の再発に怯えながらの毎日。手術後丸五年直前に待望?の再発。以来今年の4月迄で計6回の再発。そろそろ7回目間近かなと思っている昨今です。一生の付き合いなので大事に、真摯に交流していく様やHCVの怖さやHCV患者に対する偏見、誤解等 私なりの考えを述べたい。また自分の病気を元に医療全体の諸問題に付いても改めて考えていこうと思います。以上が当ブログの中心ですが、私の他愛の無い私生活(読みたくも無いか?)の一端もご紹介していきたいと思います。私の命が夕刊T紙に救われたように、この記事を見てHCV検査や他の精密検査の後押しが出来て1人でも延命出来れば、夕刊T紙や日頃お世話になっている医療関係者に少しでも恩返しが出来ることと、このうえない喜びです。

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