父親の思い出 ⑤
左大腿部の再手術の経過は順調に進みました。35年前の記憶ですので多少の記憶違いが有ると思いましが、ギブスをはめている左足の特に膝から下の部分が痒くてたまらず、先生に訴えたところ、膝附近の部分を切り取ってくれました。其処から、竹の菜ばしを入れて掻いたときの気持ち良さは今でも鮮明に覚えています。その1ヵ月半後位に松葉杖をつき、先に手術した右足でベッド脇に立つように云われ、事故以来7ヶ月振り位に立ってみましたが、眩暈がしてすぐベッドに腰掛て、何度か繰り返す内に眩暈も治まり、ベッド上の視点と立ち上がって見渡す視点の違いは僅か、1メートル位なのに、立って見る人間の本質を取り戻した所為か、先に希望の光が見えた感じを喜びました。其れから間も無くギブスを外され、徐々に左足にも体重をかけながら松葉杖で歩き始めました。左足の膝関節はかなり痛い思いをしながら、何度も繰り返し繰り返し曲げる訓練をしましたが、余りにも固定していた期間が長かったので、70度くらいが極限の曲がる角度となりました。(正座は勿論、足を組んでも左足を上にするとチョット混んだ電車などでは他人の膝附近に当たったりするので、組めません。ですが、後に運転教習所でトランスミッション車に乗り、クラッチを踏んだ時は、それ程窮屈さを感じませんでした。)先生が手術前に説明されたように、3,5cm程短くなっていましたので、松葉杖を両手に持って歩く分には跛行が目立ちませんが、普通の杖だとかなり体が左右に揺れていましたが、ある程度の筋力が付いてきたら多少は軽減されました。其の後間も無くして退院し、其の病院から200メートルも離れていない母のアパートに同居し、週1回、多分肝炎治療の注射だと思いますが、1年ほど通院しました。此の頃の私が如何に自分の病気に無関心だったかが窺い知れることでしょう。退院して間も無くして、私達の住んでいる直ぐ近くの雑居ビルの工事をしていた父親は、仕事帰りに寄って晩酌をしていったり、たまに、其のビルの中にある小料理屋やスナックなどに私を誘って呉れたりして貰いました。後々考えるに、父親と外で2人きりで飲んだのは兄弟中で私だけだと思われます。普通の杖で歩けるようになった頃に、父が看板に水道工事店の募集が出ていたと教えてくれたので、早く自立の道をと考えていた私は、自宅から150m程の近場で通勤も楽なので、職種に関係無しに応募を決め、面接に行き、その場で採用され、翌日から通勤することになりました。仕事の内容は、上下水道工事の申請図面や道路工事を行う際の警察に提出する道路許可申請の図面の作成や申請書類の作成が取敢えずの、私の仕事と云う事でした。図面を書くことは工業高校の時に専門科目のなかで唯一100点近くの点数を貰ったもので、好きで、得意な分野でした。此の製図というものは普段の勉強は全く関係無く、教科書の図面をトレースしたり、教科書の図面を拡大して描いたりするだけのものです。但し、若干の根気と繊細さと空間判断力は必要です。あと、面接時に3ヶ月は研修期間で、3ヵ月後に給料の見直しをするといわれた記憶が私には有りました。が此の事が一番大きな原因で、此の会社は半年後に辞める事になるとは予測もしませんでした。 ~次回に続く


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