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2008年7月

2008年7月14日 (月)

悲しい現実の中で…今の自分に問う。。

以下の記事は私が尊敬してやまないブログのお友達O女史が或るブログを訪問し深く考えさせられた記事だそうです。私もこの方と同じ様に感じ、出来るだけ多くの方々に此の現実をお伝えする手段として、私の主観は敢えて省かせて頂いてこの方の原文をコピーし、皆様にお伝えしたく思います。(以下原文)                                                ☆我が拙いブログにお立ち寄りくださった方のブログで、心に留まるメッセージに出逢いました。

その記事を拝読しながら、非常に心揺さぶられ、
深く考えさせられました。

今の日本は、物にあふれかえり、豊満(金満)大国とすら言われています。
そんな中、便利になり、溢れかえるモノとは裏腹に、
人の心は、と言うと、どこか寂しい風が吹きすさんでいるような
満たされない思いの中で、心病んだり、痛めたり、
または、人が人を傷つけたり、殺める、といった、本当に痛ましい、
心締め付けられる事件が、後を絶ちません。

世界では、貧困にあえぎ、飢餓に苦しみ、
個人としては、避けられない戦争などといった悲しい現実の中で、
明日の光さえ、見えない状況の下、必死に生きている人たちもいると言うのに。。。

前フリが長くなってしまいました。
以下、お邪魔したブログで拝見し、深く考えさせられた記事です。
(原文そのまま掲載させていただきました)


☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆


ヨーガや気功 太極拳など

健康講座へ通う道すがら

神社や寺 墓地などで見かけるのが

忠魂不滅や 軍神

英霊などの文字が刻まれた

碑や墓碑である。

近頃 モダンなデザインの墓も多くなり

和・やすらかに・慈光・愛・心・まごころ

などの文字が刻まれたものもあり

先にあげた墓碑などが

ひっそりと 忘れられた存在となっている

戦争で 人をより多く殺せば

英雄 軍神とあがめられた

不幸な時代が 我が国にもあった

だが 天や神もよくやったと

祝福したであろうか?

近年 かつて愛国少年であり

晩年は天下のご意見番的存在だった

作家城山三郎が逝き 

平和市民運動のシンボル的存在だった 小田誠が

ベットの上からも死を賭して平和を語り続け

涙に 声を詰まらせながら 亡くなった

大柄で少し猫背

トレンチコートが良く似合った小田さんとは

O市に公演に来られた折

うどんを食べながら語った思い出がある。

さて 以下に記すものは 今も世界の何処かで起きている戦争 

狂気を体験したある13歳の少年の言葉である

願わくは

教育に携わる方

ヨーガや気功 太極拳など

心身の健康を標榜する人々

そして 平和を愛するすべての人々に

是非一読していただきたく

遅ればせながらパソコン初心者の小生が

秘儀(?)を駆使して

かすめ取って来たものです

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 少なくとも、ぼくは2人の人間を殺した。

 AK47と呼ばれる小型武器で。

 小型武器とは、ぼくたち子どもでも扱える小さくて軽い武器のことだ。

 でも、この武器は僕らの国では作っていない。

 ぼくが使っていた武器は外国から入ってきたものだった。

 ぼくらのことをチャイルドソルジャー(子ども兵)と人は呼ぶ。

 小型武器を持って戦う兵士だからだ。

 でも、2年前までぼくはふつうの子どもだった。

 家族がいて友達がいて幸せに暮らしていた。

 ある日、大人の兵士が村にやってきてぼくを連れ去った。

 ぼくはその日から兵士になった。

 ぼくは人の殺し方を教え込まれ戦場で戦った。

 逃げようとした友達は大人の兵士に耳を切り落とされた。

 ぼくの目の前で友達が殺されていった。

 女の子は大人の兵士に乱暴された。

 怖かった。

 家に帰りたかった。

 お母さんに会いたかった。

 運よく、ぼくは大人の兵士がいないときに

 軍隊から逃げ出すことができた。

 村に帰ってきたが、友達は誰もいなかった。

 ぼくはみんなに「人殺し」といわれ学校ではいじめられた。

 家族や親戚からも怖がられ前みたいな幸せは戻ってこなかった。

 悲しかった。

 寂しかった。

 あるのは絶望だけだった・・・。

 ぼくは何度も死のうと思った。

 そして、何度も何度も自分自身に問いかけてみた。

 ぼくは何のために生まれてきたのか?

 ぼくはなぜ生きているのか?

 ぼくは生きる価値がはあるのか?

 ぼくにできることはあるのか?

 「もし、ぼくに何かできることがあるなら、ぼくには生きる意味がある 」

 ぼくはそう思った。

 ぼくに何ができるか?

 「ぼくとおなじ悲しみを、子どもたちに体験させたくない」

 ぼくはそう思った。

 ぼくには紛争の「悲しみ」を伝えることができる。

 ぼくには平和の「喜び」を伝えることができる。

 ぼくには、ぼくにしかできないことがある。

 今、ぼくは先生になってそのことを伝えていこうと思っている。

 ぼくの夢は学校の先生になること。
 
 むずかしいかもしれないけど

 あきらめずに夢を追っていきたい。

   
                                   ぼくは13歳 職業、兵士。の本の
                                      ウガンダの子ども兵からのメッセージより


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何か感じられた方、何か行動に移す人は100人に1人といわれます。

転載でも何でも結構です。その1人になってくれますか?


☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆


以上が、お邪魔したブログで拝見した記事です。。
哀しいけれど、、地球の裏側では、こんなことが
起こっているのです。。

この記事をコピーさせていただいたのは、
皆様に、どうかしてくれ、、と言いたかったのではなく、
こういう現実がある、ということと、
自分自身への自省の意味も込めて、
記載させていただいたのでした。。

2008年7月13日 (日)

1年半ぶりの新しい仕事への復帰

両親や兄弟達、特に次兄は鎌倉入院時には、何度も見舞いに来てくれましたが、何時も暇つぶしにと山本周五郎全集(新潮社刊だったと記憶しています)の内の数冊を、差し入れてくれ、入院中に全集(全約20巻位でした)が全て揃いました。勿論、私は全てを読破し、特に気に入ったものは繰り返し読み、以来、周五郎の大ファンとなりました。特に伊達藩の○○周防守(すおうのかみ)を登場人物に扱った小説で、長編ではNHK大河ドラマの初期の頃に平幹二郎が主演を努めた「樅の木は残った」の家老役の妻律は周防守の妹です。周五郎作品の殆ど全ての作品に登場する主役、脇役、敵役に関わらず、周五郎の慈悲深い人間愛や人生の機微に触れて、読み終えた後は何時も気持ちが洗われたような気分にされます。また、○○周防守の○○は私の姓でも有り、周防守が伊達家から隠居の地として与えられた松山は私の出身地の隣町(現在は合併して同市)です。この地を題材にした短編「月の松山」など、先にも話した通り、周五郎は好んで周防守を登場させ、其のいずれの作品でも家来に対し慈悲深く深慮遠謀の好人物として描かれています。私は周五郎の小説で、人生観が変わった様に思います。大怪我で将来はサラリーマンとして定年まで使って貰えるかどうかも分からないし、また自分の性格上、使用人として退職まで働けるかは私も自信が無かったので、若し、将来独立する際は尊敬する周防守に少しでもあやかりたく思い「周防」と言う称号を使おうと思いました。
 また、次弟の四男は休みの度(ほぼ毎週)に来て呉れて、私の寝たきりの足裏を長時間に亘りマッサージしてくれ、動かせない両足の血流の促進や脳への刺激をしてくれました。こうして多くの肉親や、転院後の主治医他の皆さんのお陰で人生の再出発をスタートしたのでした。          
 就職先には面接日の翌日から出社しました。社長は私と同じ年の当時29歳だったと思います。他の事務所の従業員は社長の両親、妹、他にこの業界のベテランらしき、所謂、この業界で言う技術者(正確には給水(及び排水)装置工事技術者、給水装置工事配管工と言う所轄する役所が認めた肩書きを持つ方と女の事務員さんの計7名で、他に現場の職人さん達がいました。私が入社した年にM市独自の水道から東京都に一元化された年でした。其れまでM市は3箇所の井戸水を汲み上げて供給していましたが、地番沈下の問題や将来の地下水の枯渇問題等を考慮し、東京都の水源確保も確実になったので一元化となったのだと解釈しました。水道工事をするにあたっては管理者に給水装置工事の申請をし、承認を得た後に工事に着手する規定があり、これをしないで管理者にばれた場合は当然、其の程度や事情により、罰則が適用される事になります。この工事の申請は先に挙げた2つの資格の内の何れかを所有している者しか出来ません。此処では其の業務を先のベテラン技術者が殆ど処理していた様子でしたが、私が勤め始めてまもなくこの方は近々辞めると聴いて、途方に呉れました。と言うのも入社以来、材料の名称や拾い方(数の数え方)などの仕事のイロハをこの方に教わっていたのです。但し、図面の書き方は、東京都の給水装置工事施工要領に基いて作成しなければならないのですが、この方も未だこれに慣れていなくて暗中模索という感じでした。其のうちにこの方が辞めたので、施工要領の本を読みながら図面書きを何度か繰り返し、或る日、初めて申請書類と共に私の書いた設計図面を有資格者の社長が申請窓口の担当者に提出した所、「こんな書き方じゃだめだ」と投げ返されたそうでした。        ~次回に続く~

2008年7月11日 (金)

父親の思い出 ⑤

左大腿部の再手術の経過は順調に進みました。35年前の記憶ですので多少の記憶違いが有ると思いましが、ギブスをはめている左足の特に膝から下の部分が痒くてたまらず、先生に訴えたところ、膝附近の部分を切り取ってくれました。其処から、竹の菜ばしを入れて掻いたときの気持ち良さは今でも鮮明に覚えています。その1ヵ月半後位に松葉杖をつき、先に手術した右足でベッド脇に立つように云われ、事故以来7ヶ月振り位に立ってみましたが、眩暈がしてすぐベッドに腰掛て、何度か繰り返す内に眩暈も治まり、ベッド上の視点と立ち上がって見渡す視点の違いは僅か、1メートル位なのに、立って見る人間の本質を取り戻した所為か、先に希望の光が見えた感じを喜びました。其れから間も無くギブスを外され、徐々に左足にも体重をかけながら松葉杖で歩き始めました。左足の膝関節はかなり痛い思いをしながら、何度も繰り返し繰り返し曲げる訓練をしましたが、余りにも固定していた期間が長かったので、70度くらいが極限の曲がる角度となりました。(正座は勿論、足を組んでも左足を上にするとチョット混んだ電車などでは他人の膝附近に当たったりするので、組めません。ですが、後に運転教習所でトランスミッション車に乗り、クラッチを踏んだ時は、それ程窮屈さを感じませんでした。)先生が手術前に説明されたように、3,5cm程短くなっていましたので、松葉杖を両手に持って歩く分には跛行が目立ちませんが、普通の杖だとかなり体が左右に揺れていましたが、ある程度の筋力が付いてきたら多少は軽減されました。其の後間も無くして退院し、其の病院から200メートルも離れていない母のアパートに同居し、週1回、多分肝炎治療の注射だと思いますが、1年ほど通院しました。此の頃の私が如何に自分の病気に無関心だったかが窺い知れることでしょう。退院して間も無くして、私達の住んでいる直ぐ近くの雑居ビルの工事をしていた父親は、仕事帰りに寄って晩酌をしていったり、たまに、其のビルの中にある小料理屋やスナックなどに私を誘って呉れたりして貰いました。後々考えるに、父親と外で2人きりで飲んだのは兄弟中で私だけだと思われます。普通の杖で歩けるようになった頃に、父が看板に水道工事店の募集が出ていたと教えてくれたので、早く自立の道をと考えていた私は、自宅から150m程の近場で通勤も楽なので、職種に関係無しに応募を決め、面接に行き、その場で採用され、翌日から通勤することになりました。仕事の内容は、上下水道工事の申請図面や道路工事を行う際の警察に提出する道路許可申請の図面の作成や申請書類の作成が取敢えずの、私の仕事と云う事でした。図面を書くことは工業高校の時に専門科目のなかで唯一100点近くの点数を貰ったもので、好きで、得意な分野でした。此の製図というものは普段の勉強は全く関係無く、教科書の図面をトレースしたり、教科書の図面を拡大して描いたりするだけのものです。但し、若干の根気と繊細さと空間判断力は必要です。あと、面接時に3ヶ月は研修期間で、3ヵ月後に給料の見直しをするといわれた記憶が私には有りました。が此の事が一番大きな原因で、此の会社は半年後に辞める事になるとは予測もしませんでした。    ~次回に続く

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