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2008年6月11日 (水)

父親の思い出 ③

 昨夜の事故から意識が戻った私は手術台の側の母親の顔を見て、何が有ったのかは知らないが、何かしらの異常事態を察知し、思わず、母の手を握ってしまいまいたが、之は夢ではなく現実だと確認したかった。生きているのだと実感したかった思いからの行動ではなかったかと思われます。
其の後の母の話によると、未明に電話があり、支度を整え次第父親の運転で鎌倉に向かったそうですが、鎌倉は初めてで迷いながら朝方にやっと収容先の救急指定のO医院に辿り着いたそうです。電話では、両大腿骨と左手首骨折と怪我の状況は知らされたそうですが、出血多量で着くまで死んでいないだろうかと2人で心配し通しだったそうですが、着いて、医師から命に別状は無いと言われ、父はその日の仕事の段取りの変更と母の付き添いに必要な最小限の荷物を取りに戻ったとのことでした。其の日の夜に父は母の荷物を持って来てくれ、私には「何も心配することは無い」と云い、帰って行きました。其の後は父の仕事の休日の度に顔を見せて呉れました。また、タクシー会社との運転手の休業補償や、乗客が軽いムチ打ちを訴えていたので其の交渉や弁償金の支払い等を処理して呉れました。手術は内出血が収まるのを待って単純骨折の右大腿骨を始めに行いました。之は上手くいきましたが、問題は楔形に骨折し、皮膚の外に飛び出した(開放骨折の)左大腿部でした。此処の外科医は隣のベッドの付き添いの小母さんの話に拠ると、院長の妹の連れ合いで普段は何処かの勤務医で週2回、其れも午後だけの非常勤医師だと判りました。左の方は手術も難しそうなのでここの小病院(ベッド数10未満位の個人病院)ではなく、父母の住む、父親の仕事仲間の奥さんが婦長をしているI病院(整形外科医は院長の娘婿で勿論常勤)の方が信頼できそうだし、看護も近くて楽なので父が院長に転院を申し出たところ、院長は死にそうなのを助けて貰って於いて、其れは無いだろうと激怒され、父も一番弱い処を衝かれ、引きさがざるを得なかった様です。私も此の病院にはある種の危惧を感じていました。其の理由は1回目の請求書が内訳無しの一式と言う形式のものだったからです。幾ら個人病院でも自由診療であれ、保険診療であれ、一式と言う事は相手の言い値通りを支払えと云う事です。こんな悪徳病院は一時は嫌な思いもしますが、一刻も早く喧嘩してでも抜け出すべきと後で臍を咬みました。2回目の手術(左大腿骨)は昭和47年の12月中旬に行われ、1週後のレントゲン写真を見て驚きました。何と金属プレートが、骨から浮いているではないですか。つまり、腰側の骨と膝側の骨がくの字状になっていて、(有り得ないことだと思いますが)万が一この儘くっついてもひどい蟹股になるのは明白な儘、年を越してしまいました。そして、新年を迎えて松の内も過ぎた頃、其の整形外科医の姿をレントゲン写真を見せて貰って以来見えない理由を院長に訊ねると『ヨーロッパの方に留学したので、代わりの先生を探している』と言う返事が帰って来ました。当時、私は医学的知識や病院のシステム、等に無知な上に院長に強い調子で詰問できる勇気の無かった事が後々、悔やまれます。    ~次回に続く

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