父親の思い出
昨日(6月1日)は亡き父親の17回忌でした。お墓は田舎(宮城県の現大崎市という仙台から36km程旧国道4号を北上した「ささにしき」の本場の穀倉地帯)に有りますがお寺の住職さんの都合で前日の5月31日の11時より、私の兄弟(男ばかりの6人です)の8歳上の長男が仙台に住んでいて、其の長男の長男(甥)のそれぞれの連れ合いの4人が代表して法要を済ませてくれました。甥は福島の郡山から老父母だけでは寂しいと思い、わざわざ参加して呉れた様子でした。残りの5人の兄弟達は5歳上の次兄が千葉市に、私は3男で母親と神奈川県S市に住んでいて、年子の4男とまたまた年子の5男は東京M市に、5才下の6男は横浜市に其々住んでいまして、昨日は久しぶりに5人揃って我が家に集まり、焼香後に献杯し、6男が上等の寿司ネタを仕入れて握って振舞って呉れました。此の弟は大卒後から山一證券に勤務し、山一が倒産して解雇されるまで勤めていて勤務中の半分以上は海外勤務でしたので現在は其の当時の同僚がスイスでやっている投資会社の仕事をオールコミッション制でやっていて、外国人の友人が遊びに来た際は自分で寿司を握ってもてなしているようです。はじめに食べたときよりも最近は寿司屋と遜色無い程に上達しました。弟のお陰で私はハマグリの吸い物と鳥の手羽先料理を作っただけでした。
話が脱線しましたが、父親の話に戻ります。父の職業は大工でした。私が物心付いた頃は学校などの木造建築の大工の棟梁として幾つかの現場をやっていました。勿論、元請ではなく地元の入札資格を持った工務店の下請けとしての仕事だったと思います。私は小学校に入る前は下の弟達が小さかった所為も有り、よく父親に付いて行き現場付近の泊めて呉れている民家に其の現場が終わるまで過ごした記憶が有ります。家から仕事場までは10k以上は離れていたと思います。交通手段は車などは殆ど走っていない時代ですから自転車でした。荷台には道具類などを積みますので、私は前輪とサドル附近に架かっているバーに横座りし、父がハンドルを持つ手で落っこちない感じで支えてくれるのですが、其の時、父の髭の生えた頬が私の頬にあたり、子供には痛く感じられ少々不快に感じた記憶が残っています。
我が家にとって大きな転機が訪れたのは、父が満41歳の所謂厄年と世間で言う年に父が血を吐いて1年余り入院生活を余儀なくされた事でした。私が10歳の頃になりましょうか。当時長兄は高3で今の兄嫁と交際していて、しかも結婚の約束までしていた様子でした。相手は1人娘で多少の資産家だったらしく、先方は婿としてなら許可すると言い、私の父親は長男を婿にはやれないと反対し、両家に気不味い感じが残りました。結局、長兄は高卒後国家公務員になり、再初の赴任地は仙台になり姓は変えずに勤務地には遠い先方に住んで通勤していました。ようやく病を終えた父は仕事を求めて東京に住み、仕事も得たようでした。 ~次回に続く


コメント