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2008年6月

2008年6月13日 (金)

父親の思い出 ④

 はじめに手術した右の方は2ヶ月後にギブスがとれましたが、僅か2ヶ月の間にひざ関節がかたまり、屈折が出来なく、院長もリハビリの仕方を教えて呉れないので、聞くのも癪なので、父に頼んで30cm位の高さの横から見ると2等辺3角形の膝下があたる部分を2cm位切り取った形の物を作って貰いました。そして、先ず最初に熱く蒸したバスタオルをひざ関節付近に巻いてもらい、すぐ冷めないようにその上にビニールを巻きつけて、10分位温めたうえで、その3角形状の上にひざを乗せ、1kgほどの砂袋を2個作り、紐で結えて足の両側に振り分ける形でぶら下げて重石代わりにしました。最初のうちは苦痛でしたが、毎日、2回繰り返しやっているうちに少しづつ曲がり始め、30度位から90度までは割と短時間で曲がるようになりましたがそれからがまた大変でした。今度はやはり温めたのち自分で右太腿を両手で抱え、腰と太腿が曲がるようにし、スムースに曲げられるようになったら膝を抱え込みながら母に両足首を持ってもらい、軽く体重を懸けてもらう事を繰り返すうちに150度くらいまで曲がり、あとは足を折りたたんで自分の体重を少しずつ調整しながら繰返し繰り返し続けて、やっと180度、つまり座れる形になりました。そうこうしている内に、手術後3か月たって、ようやく替りの外科医が来て、また、レントゲン写真を一応撮りました。それを見た若い外科医は、多分「自分の手に負えない」と感じて院長と相談したのでしょう。院長が父親に「前に転院したいと言っていましたね。新しい外科医がここの手術施設では(再手術が)難しい様な事を言っているので、もし転院したいなら、結構ですよ」と言われたらしく、常識のある医者なら「うまくいかなくて申し訳ないです」位の一言が有って然るべきところをそのような殊勝な態度は一切無く、また、私の父も特に院長に抗議もしないで、両親の住む町の、前に書いた、父の仕事仲間の奥さんが婦長をしているM.I病院にこれも父の仕事仲間の大工さんのライトバンで、M.I病院に運んでもらい入院しました。病棟は増築したてのコンクリート造りの2人部屋で足の甲の骨折で入院したばかりの方と同室になりました。担当の整形外科医の先生は見るからに真面目で温厚そうな方でした。がレントゲン写真を見て、う~んと小さくうなり、「足が3cmチョット位短くなりますよ」と言い、その理由と手術の大まかな説明をしてくれました。全体的印象でこの先生ならなんとか歩けるようにして貰えそうだと感じました。手術は5時間位掛かりました。先ず、腰骨の一部を切り取ります。次に前のプレートを入れた部分にメスを入れ、プレートとビスを取り除き、楔形に折れた部分を其々切り落とし、次に大腿骨の腰側の方から骨の中の空洞を見極めドリルで穴を開け、そこから膝付近まで3角形の補強用の金属製の棒を差し込んだのですが、もともとぐらつかないように太め加減に作った所為で、最後の方は小槌で叩いても、なかなか思ったように根元まで打ち込めなかった感じで、その部分は冷えたりすると付近の筋肉が委縮するようで、普通に歩けません。先に腰から切り取った骨と楔形の部分の切り取った骨を砕いて、骨折した接合部の欠損部分に埋め込みメスを入れた部分の縫合で終了でした。5時間休みなしの先生はさすがに疲労の色が窺えました。この手術中に輸血に因るとおもわれる湿疹が瞬く間に全身に広がりましたが、単なる血液アレルギーだったようです。 この時期の父は仕事も多忙でしたが、病院にもよく顔を見せてくれました。   ~次回に続く

2008年6月11日 (水)

父親の思い出 ③

 昨夜の事故から意識が戻った私は手術台の側の母親の顔を見て、何が有ったのかは知らないが、何かしらの異常事態を察知し、思わず、母の手を握ってしまいまいたが、之は夢ではなく現実だと確認したかった。生きているのだと実感したかった思いからの行動ではなかったかと思われます。
其の後の母の話によると、未明に電話があり、支度を整え次第父親の運転で鎌倉に向かったそうですが、鎌倉は初めてで迷いながら朝方にやっと収容先の救急指定のO医院に辿り着いたそうです。電話では、両大腿骨と左手首骨折と怪我の状況は知らされたそうですが、出血多量で着くまで死んでいないだろうかと2人で心配し通しだったそうですが、着いて、医師から命に別状は無いと言われ、父はその日の仕事の段取りの変更と母の付き添いに必要な最小限の荷物を取りに戻ったとのことでした。其の日の夜に父は母の荷物を持って来てくれ、私には「何も心配することは無い」と云い、帰って行きました。其の後は父の仕事の休日の度に顔を見せて呉れました。また、タクシー会社との運転手の休業補償や、乗客が軽いムチ打ちを訴えていたので其の交渉や弁償金の支払い等を処理して呉れました。手術は内出血が収まるのを待って単純骨折の右大腿骨を始めに行いました。之は上手くいきましたが、問題は楔形に骨折し、皮膚の外に飛び出した(開放骨折の)左大腿部でした。此処の外科医は隣のベッドの付き添いの小母さんの話に拠ると、院長の妹の連れ合いで普段は何処かの勤務医で週2回、其れも午後だけの非常勤医師だと判りました。左の方は手術も難しそうなのでここの小病院(ベッド数10未満位の個人病院)ではなく、父母の住む、父親の仕事仲間の奥さんが婦長をしているI病院(整形外科医は院長の娘婿で勿論常勤)の方が信頼できそうだし、看護も近くて楽なので父が院長に転院を申し出たところ、院長は死にそうなのを助けて貰って於いて、其れは無いだろうと激怒され、父も一番弱い処を衝かれ、引きさがざるを得なかった様です。私も此の病院にはある種の危惧を感じていました。其の理由は1回目の請求書が内訳無しの一式と言う形式のものだったからです。幾ら個人病院でも自由診療であれ、保険診療であれ、一式と言う事は相手の言い値通りを支払えと云う事です。こんな悪徳病院は一時は嫌な思いもしますが、一刻も早く喧嘩してでも抜け出すべきと後で臍を咬みました。2回目の手術(左大腿骨)は昭和47年の12月中旬に行われ、1週後のレントゲン写真を見て驚きました。何と金属プレートが、骨から浮いているではないですか。つまり、腰側の骨と膝側の骨がくの字状になっていて、(有り得ないことだと思いますが)万が一この儘くっついてもひどい蟹股になるのは明白な儘、年を越してしまいました。そして、新年を迎えて松の内も過ぎた頃、其の整形外科医の姿をレントゲン写真を見せて貰って以来見えない理由を院長に訊ねると『ヨーロッパの方に留学したので、代わりの先生を探している』と言う返事が帰って来ました。当時、私は医学的知識や病院のシステム、等に無知な上に院長に強い調子で詰問できる勇気の無かった事が後々、悔やまれます。    ~次回に続く

2008年6月 5日 (木)

父親の思い出 ②

 今までの記事の中からは未だ父親の性格や母親や子供への接し方等、親父の人柄、人格を窺い知るような記述は無かったと思いますので、ここで、親父の性格を私なりに感じ、また人様の評価をまとめて云うと、誰もが短気で妥協を許さない(悪く言えば包容力が無い)人と言う事です(此の性格が多少の影響を及ぼしていたのだと推測するに弟子達が何人も来ましたが、1人前で年季をあけた人は2,3人しかいません)。どちらかと言うと精力的で女好きの傾向がありました。また、酒好きで機嫌が良い時は都都逸や民謡、特に「さんさ時雨」は何度か聞いた記憶がありました。声量があり、子供ながらに聞きほれた記憶があります。木材に墨付けをしている時なども鼻歌を歌っていました。良い点はう~ん、はっきり云って特筆するものが、余り浮かんでこないんですよね。2日に1回目を掲載後、今述べたところをどう表現しようかと、正直迷っていたのです。 失礼ながら、 之を読んで頂く方の感じ方に、私の親父の全体像を思い浮かべて頂ければ幸いです。
さて、上京後にどんな形で最初の仕事に有り付けたのかは知る由も有りませんが、母への仕送りはぎりぎり生活できる程度は有ったようです。上京後5,6年して親父が車で帰って来ました。母親は勿論、私たちも久しぶりの帰郷に喜び合いました。が、それ以降は送金は続いていたようですが、殆ど帰郷する事は無くなりました。どこでどう知り合ったのか、3,4歳の女の子持ちの十数歳下位の女性と共同生活を始めたらしい事を母が察知して、子供ながらに一所懸命働きながら、父親代わりも兼ねて子育てしている母親に子供達は同情し、そして大人になって結婚した時は其の相手に対し、母親の悲しみを味合わせることの無い家庭をつくろうと、多分、全ての兄弟達が思った筈です。其の証拠に、私の結婚した兄弟達はみんな、奥方にやさしく、料理や家事を手伝っています。そういう意味に於いて父は反面教師だった訳です。 末弟が高校を卒業した翌、昭和46年に母親も上京し、父親の住むM市にアパートを借り住み始めましたが、親父は相変わらず其の女性と同居していました。母親は多分、上京したら女と同居を解消し、自分と同居するものと思い込んでいたのではと思い、胸が痛みました。母親が上京した翌年、私は鎌倉市の由比ガ浜方面から江ノ島に向かう途中の稲村ガ崎の緩やかなカーブを曲がって、70m位先の信号待ちのタクシーに追突し、タクシーの屋根後部附近まで飛んで当たり、それから路面に落ちたそうですが、当たる前からの記憶は無く、気付いた時は病院で母親が側に立っていて、私は思わず母の手を握り締めました。
       ~次回に続く          

2008年6月 4日 (水)

NK細胞で移植後の肝癌防ぐ

正常な肝臓にある強い抗癌作用を持つナチュラルキラー細胞(NK細胞)を培養 投与することで、肝臓癌で臓器移植を受けた後の患者で、再び肝臓癌が出来るのを防ぐことに、広島大の大段秀樹教授(外科学)らが成功した。肝臓癌患者に移植を行った後、体内に残るがん細胞で、再びがんができる場合がある。                         
 大段教授らは2年前、移植用の肝臓に通した後の保存液から、強い抗癌作用を持つNK細胞を発見。2日間培養し、肝臓癌を殺す能力高めたNK細胞の投与を移植患者に始めた。      
 その結果、2000~2006年に移植を受け、NK細胞を投与されなかった患者42人のうち4人に再びがんができたが、細胞を投与した14人には現在、がんはできていない。     
 培養したNK細胞の表面には、肝臓がんを殺す働きを持つたんぱく質が多数生成されるという。   
 また、肝臓がん患者の7割以上がC型肝炎だが、培養したNK細胞は肝炎ウィルスの増殖を抑えるインターフェロンを作り出す働きも持つ。大段教授らが移植後の患者にNK細胞を投与したところ、何もしない場合と比べ、ウィルスの量を一時100分の1まで減らすことが出来たという。      
                     (6月1日付け読売新聞より転載)          
 此の記事に対する私の見解:NK細胞を投与した患者は14人で期間は未だ2年間、一方、投与しなかった患者は42人で期間は延べ7年を比較すると、統計学的には比較対照のバランスに欠けていると思いますので、もっと長いスパンでの検証が必要では無いでしょうか!?。ウィルスの量も一時的な要素も窺がわれ、ウィルス量は多いよりは勿論少ないに越した事は有りませんが、0(陰性)にならないと大きな期待は持てない感じがしました。移植患者さんの研究も大切な事だと思います。が、移植出来ない肝癌患者が圧倒的に多い訳で、此の研究を一般の肝がん患者にも役立つような研究も、是非とも早急に着手して頂きたいものです。

2008年6月 2日 (月)

父親の思い出

昨日(6月1日)は亡き父親の17回忌でした。お墓は田舎(宮城県の現大崎市という仙台から36km程旧国道4号を北上した「ささにしき」の本場の穀倉地帯)に有りますがお寺の住職さんの都合で前日の5月31日の11時より、私の兄弟(男ばかりの6人です)の8歳上の長男が仙台に住んでいて、其の長男の長男(甥)のそれぞれの連れ合いの4人が代表して法要を済ませてくれました。甥は福島の郡山から老父母だけでは寂しいと思い、わざわざ参加して呉れた様子でした。残りの5人の兄弟達は5歳上の次兄が千葉市に、私は3男で母親と神奈川県S市に住んでいて、年子の4男とまたまた年子の5男は東京M市に、5才下の6男は横浜市に其々住んでいまして、昨日は久しぶりに5人揃って我が家に集まり、焼香後に献杯し、6男が上等の寿司ネタを仕入れて握って振舞って呉れました。此の弟は大卒後から山一證券に勤務し、山一が倒産して解雇されるまで勤めていて勤務中の半分以上は海外勤務でしたので現在は其の当時の同僚がスイスでやっている投資会社の仕事をオールコミッション制でやっていて、外国人の友人が遊びに来た際は自分で寿司を握ってもてなしているようです。はじめに食べたときよりも最近は寿司屋と遜色無い程に上達しました。弟のお陰で私はハマグリの吸い物と鳥の手羽先料理を作っただけでした。                       
 話が脱線しましたが、父親の話に戻ります。父の職業は大工でした。私が物心付いた頃は学校などの木造建築の大工の棟梁として幾つかの現場をやっていました。勿論、元請ではなく地元の入札資格を持った工務店の下請けとしての仕事だったと思います。私は小学校に入る前は下の弟達が小さかった所為も有り、よく父親に付いて行き現場付近の泊めて呉れている民家に其の現場が終わるまで過ごした記憶が有ります。家から仕事場までは10k以上は離れていたと思います。交通手段は車などは殆ど走っていない時代ですから自転車でした。荷台には道具類などを積みますので、私は前輪とサドル附近に架かっているバーに横座りし、父がハンドルを持つ手で落っこちない感じで支えてくれるのですが、其の時、父の髭の生えた頬が私の頬にあたり、子供には痛く感じられ少々不快に感じた記憶が残っています。      
 我が家にとって大きな転機が訪れたのは、父が満41歳の所謂厄年と世間で言う年に父が血を吐いて1年余り入院生活を余儀なくされた事でした。私が10歳の頃になりましょうか。当時長兄は高3で今の兄嫁と交際していて、しかも結婚の約束までしていた様子でした。相手は1人娘で多少の資産家だったらしく、先方は婿としてなら許可すると言い、私の父親は長男を婿にはやれないと反対し、両家に気不味い感じが残りました。結局、長兄は高卒後国家公務員になり、再初の赴任地は仙台になり姓は変えずに勤務地には遠い先方に住んで通勤していました。ようやく病を終えた父は仕事を求めて東京に住み、仕事も得たようでした。    ~次回に続く           

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