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2008年5月

2008年5月27日 (火)

BIGLOBEから私のブログサイトにアクセス出来ないのは何故か?

BIGLOBEから私のブログサイトにアクセス出来ないのは何故か?                               私の弟が“hide-GとHCVの交流記"で入力検索したところ”このホームページはウィルス感染の恐れがありますので、表示を中止いたします。※「ホームページウイルスチェック」については、こちらをご覧ください。”

というメッセージで開けませんでした。
ひょっとしてウィルス感染しているのではないでしょうか。と云うメールがあり調べた上、下記の返信をしました。                             返信①私のパソコンにはソースネクストのウィルス0(ZERO)
がインストールして有り自動的にアップデートされていてウィルスの進入余地は有りません。若し、進入したら自動駆除しますし、それに対応出来ない場合は隔離する様になっています。一応ウィルスチェックしてみましたが、検出されませんでしたので問題無い筈です。


返信②『ウィルス感染の恐れがある』というのは何が根拠になっているのだろうかね?何処のI.S.Pでも相当の確信が無ければ警告はしても、表示を中止するという事はインターネットの根幹に関わる問題でインターネット其の物が成り立た無い事です。ウィルスと云うリスクを或る程度承知してアクセスしなければW.W.Wが構築されない事は素人でも判る事です。私にはI.S.Pが意図的に確たる根拠も無しに他社のブログやホームページにアクセスさせない様にしているのではとさえ、勘ぐりたくなります。      私は記事中に具体的な固有名詞は普段は避けていますが、この記事は敢えてBIGLOBEを実名で取り上げました。これ(ウィルス感染の恐れ)についてどの様な判断基準があるのか、またこの(ヤフー)ホームページは何故ウィルス感染の恐れが有るのかBIGLOBEから明確な回答を貰いたい。またこのサイトを運営しているヤフーも謂わばコケにされたわけだからBIGLOBE側に厳重に抗議すべきだと思います。ヤフーのこの問題に 付いてのコメントを伺いたいと思います。またこの記事を見た方のご意見も寄せていただけたら幸甚です.

2008年5月24日 (土)

ヤフーブログ、またもや新規投稿直前にエラー表示、記事は消えた

 5月21日同様新規投稿記事を完成し確認画面を開いたら『投稿出来ない部分があります』の表示があり戻るをクリックしたらそのままフリーズしたとたんにエラー表示画面がでてまたまた苦労した長文記事は消えてしまった。このエラーは何とかならないのか?プロバイダのヤフーさん。これじゃ投稿意欲が失せちゃってもうがっくりだ!!この怒りをどこにぶつけりゃいいってんだ

*此の問題はマイクロソフト インターネット エクスプローラーに有るとマイクロソフト社から回答がありました。詳細は省略致しますが、知りたい方は、コメント欄に書き込み頂ければ、お知らせ致します。

2008年5月21日 (水)

YAHOOブログは同時に複数アクセスしている時高い確率でエラーを起こすのは

タイトル通り、ヤフーブログを同時にアクセスしている時やリンク先に比較的に長い時間アクセスしている時、高率でエラーを起こすのは何故でしょうか。今も新規投稿記事を書き終えて、確認画面で不都合を見つけたので訂正し終えて決定を確定寸前にエラー表示があり投稿画面はフリーズ状態になり苦労して書いた記事は消えてしまいました。ブログに関係無いサイトには同時にアクセス中でも影響ありません。この不具合は何処に原因があるのでしょうか。他の方はこのような経験がありませんか。なんか疲れた。どなたでも結構です。この問題点はOS(XPSP2)に有るのか、ヤフーのブログのシステム構築上の問題か、それとも自分の操作ミスなのか。教えて下さい.

2008年5月20日 (火)

私の睡眠障害は何故直らないのか? ③

其の大きな原因の1つが私の若い頃からの睡眠習慣に有ると思います。 私は小学6年の時から中学2年までの3年間朝5時に起きて新聞配達をしていました。帰校後は朝早いのでどうしても眠くなり、2時間位昼寝をして(母親は外に働きに出ていましたので)それから夕飯を炊いていました。中3の時は高校受験勉強の為、配達は辞めました。高校は普通高校に行きたかったのですが工業高校しか許可して貰えず仕方なく電気科通信課程に進学しました。中学時代はラジオやアンプ等を新聞配達で稼いだお金で業界雑誌で見て秋葉原から部品を取り寄せ組み立てたりしていましたが単なる趣味の域で、殊更に此の学科に拘った訳ではなく仕方無しに此の学科を選択したのですが、どうしても大学に進学したくて高校2年の時に(父親は東京に職を求めて東京暮らしだったので)母親に泣き付き、普通高校に転入若しくは退学して高卒検定試験から大学入試を受けたいので、認めて欲しい。大学はお金が無いので国立に的を絞って頑張るからという私の説得に母親も根負けし、2年の夏休み前だったと記憶してますが当時の担任の先生に話をしに云って呉れ、折角入ったんだからまた1からやり直すのは大変なので、後1年半通学さえすれば専門課程は全て0点でも卒業させてくれると言われたと母親がいうので、私も考え直して従来通りに通学しました。しかし、受験に関係の無い授業中はひたすら受験科目の自習に勤しみ、先生方も一言も文句も言わず、専門科目は全て0点でした。そんな先生達の温情に応えるべく私も必死でした。此の頃は弟達も成長し、ご飯炊きも弟達がしてくれる様になったので私は帰校後に夕飯まで寝て其れから受験勉強に未明まで精を出す毎日でした。何とか卒業させてもらい、其の年は自信が無く受験しませんでした。大学に入るまでも入れた場合も全て自力でやることが条件でしたので、アルバイトを探さないといけないので全国紙を買い、新聞配達のアルバイト先を見つけて電話し採用されました。(当時のアルバイトの双璧は新聞配達と牛乳配達でした)私が目指した大学は国立1期の美術系の定員15人で四次試験まで有り競争倍率15倍という難関でした。が其の当時は全国共通一次試験とか偏差値等という物差しが無かったのが後で考えると私には不幸な結果をもたらしました。
話は戻りますが、此の新聞配達は田舎で考えていた時間よりはるかに早起きし(2時過ぎ頃)、7時ごろまで配り終えて食事のあと10時まで仮眠し、其の後夕刊到着の3時半頃までは集金や勧誘の仕事が有り、夕刊配達後は寮の食事を取る人もいれば食事する時間が無く予備校や専門学校にそれぞれの事情で行動する訳です。私は当時中野区に住んでいて、杉並区西荻窪に有る東洋美術学校に週2回通い、2次試験のデッサンに備え、其れまで本格的にデッサンの勉強はしてなかったので基本を学ぶ為に1年だけ通いました。其れにデッサンに通っていると1次試験の勉強時間も無くなるので2年目はブルータスの石膏像を買って練習してました。あっ!1年目の試験結果は不合格でした。2年目も3年目も失敗(全て1次試験で失敗)し、やっと自分の能力の程度に気づいたのでした。合格組はIQが自分と30位は違いそうだし、受験勉強の取り組み方も間違っていました。初めから3回だけの挑戦と決めていたので、目標を失った私は次の目標を探しあぐねてずるずると27歳でバイクで大事故を起こすまで新聞配達の仕事に従事していたのです。
12歳(成長期)から27歳までの長期に亘る変則的な(細切れの)睡眠の取り方、之が後の睡眠障害に影響を及ぼしている事は間違いの無い処でしょう。あと一つ考えられる原因は私の時間に対する神経質な反応です。新聞配達時は若し30分寝坊したら大変な事でした。読者の中には何時何分まで配達しますと約束して契約する方も当時は結構いましたので、自然に時間に敏感になるのです。私は今でも午前中の用事があると決まって目覚ましが鳴る以前に目覚めてしまいます。之も嘗ての習性が身に付いて離れないからだと思います。以上思い付く儘に私の睡眠障害に付いて考えてみましたが、皆さんはどの様にお感じでしょうか?      
最後に参考までに睡眠薬の(持続性による)種類を製品名で表示しておきますので何かの参考にして頂ければと存じます。                       
 超短時間作用型:*ハルシオン、アモバン、マイスリー                 
 短時間作用型:デパス、レンドルミン、リスミー、ロラメット          
 中間作用型:ベンザリン、ユーロジン、エリミン、ロヒプノール、*サイレース
 長時間作用型:*ドラール、ベノジール、ダルメート、ソメリン
*印は私が服用中のものです

2008年5月19日 (月)

私の睡眠障害は何故直らないのか? ②

K.H病院退院後はAクリニックでもベンザリンを追加処方してくれるようになりました。つまり、ハルシオン0,25mg、サイレース2mg、ベンザリン各1錠の服用となる訳ですが、之らを1度に服用しても何れも中間作用型以下のものなのでどうすれば朝まで継続的に眠れるかが焦点となります。3,4時間後に一度目覚めるのは睡眠剤服用時に水を飲むので、生理的に排尿の為と言う事は致し方も無い点ですが、問題は其の後に問題なく再入眠出切るかどうかなので始めにハルシオンと中間作用型のどちらかを服用し、再入眠時に残りの1錠を飲んだりして効果を試しました。以前と比べれば睡眠満足度は多少は得られましたが自分の求めているものとはやはりかけ離れていましたが、この組み合わせで3年位は続けました。2年前の5月の定期診察の或る日に担当医が『睡眠(状態)はどうですか?』と訊ねた(いつも訊ねられるのですが毎回眠れないというのも億劫なのでまーまーですといっていました)ので其の時は『自分の理想に近い睡眠が取れたらすごく嬉しいんですけどね』と話した処、『わかりました』と言ってベンザリンをドラールと言う長時間作用型のものにあっさりと変えて呉れました。予想外のまた、私が長年に亘り望んでいた薬を処方して貰えるなんて。私は心の中で万歳!!と叫びました。ドラールに変えた所為で途中に生理現象で起きても間も無く再入眠出来る様になり、1ヵ月後の血液検査でAST、ALT共45になりました。此の数値は私にとって嘗て無い良い数値で睡眠(特にノンレム睡眠時の成長ホルモンの分泌や壊れた細胞の修復、免疫力の活性に大きく関係しているそうで)が体に及ぼす影響力を再認識した次第でした。ですが最近は精神的には私の今迄の人生で最も安定していると思われるのですが、満足のいく睡眠が取れなくなって困っているのです。                    
其の大きな原因の1つが私の若い頃からの睡眠習慣に有ると思います。私の小学6年の時(当時は田舎に住んでいました)大して大きな家でもなく、(6人兄弟の8人家族でした)部屋数も余っていた訳ではないのですが、大工の父親が41歳の時血を吐き1年余り入院した所為も有ったので、多分家計の少しでも足しになればと貸したのだと思いますが、一部屋を新聞販売店の出張所として貸したのでした。配達員も募集してたので小遣い稼ぎをしたかった私は小6ながら一応家主のせがれと云う事で採用され、隣町手前までの民家のまばらな地区の担当の配達を朝5時ごろ起きて50件余りを2時間掛けて配っていました。話はチョット逸れますが、1ヵ月後に700円位の初給料を貰い、其の半分で近所の呉服屋(当時は町に洋服屋はありませんでした)でエプロンを買い、母親にプレゼントしました。母は始めは驚いていましたがニッコリして『ありがとう』と受け取ってくれました。あの時の母の笑顔は未だ鮮明に覚えています。 次回に続く

2008年5月18日 (日)

私の睡眠障害は何故直らないのか? ①

長らくご無沙汰しておりました。この間にご訪問頂いた方々に対しご期待に沿えず申し訳なくお詫び申します。原因は睡眠不足による無気力に有りました。今日はこの睡眠の問題に付いて考えたいと思います。私はこの30年来、睡眠障害で悩み続けて来ました。この病気は多岐に亘り、入眠障害(睡眠リズム障害)中途覚醒、早朝覚醒などで酒を飲んでいた時分は之が入眠剤代わりでした。晩酌は日本酒換算で約5合程度だったがこの量で寝付けない時は更に飲み足したが、私は酒に強い方で中々酔いつぶれず、意識が無くなる程には相当量(殆ど急性アル中に近い量)を必要としました。が意識を無くした事は数回程で家で晩酌の増量では血管内の水分量が増えて血圧が上がり、逆効果である事に何度か繰り返して気付きました。何とか眠りに付いても3,4時間後には目覚めて、それから朝方まで悶々として6時頃に睡魔に襲われ、僅かの時間の2度寝の繰り返しでした。こんな調子なので十時頃寝たら1時過ぎには目覚め、朝方迄の悶々時間が長くなるので、就寝時間は殆ど12時過ぎですがすぐ入眠する事は稀な事でした。   
この当時は睡眠薬の服用は常用性とかボケ易くなる等と巷間で云われていたので考えた事は有りませんでした。睡眠薬が精神科で処方される事すら知らなかったのです。初めて睡眠薬(所謂導入剤ですが)を処方して貰ったのは10年前の2月に今もミノファーゲン注射他で世話になっているS・K病院に肝臓癌の検査入院をした際にハルシオン0,25mgを1錠処方して貰い服用後は多少の入眠状態の改善はみられました。手術でS.M病院に転院した際は半量の0,125mg錠に成分減量された際のエピソードは『転院、そして手術①』で述べましたが、毎日ひどい寝不足で幻覚症状まで出た程でした。退院後S・K病院に戻ってすぐに0.25mgを2錠にして貰い2年位は其の状態でしたが、手術の後遺症も癒えてきたのでアルバイト探しを始めましたが、通院治療の条件をクリアしながらのバイト探しは中々見つからず、たまに有っても応募者多数で50過ぎの病気持ちが入り込む隙間は無く、うつ状態になった所為か其れまで考えてもどうしようもない事と意識的に避けてきた、会社倒産時の債権者に対する罪悪感に苛まれ眠れない日々の連続で、此の儘だと初めての癌(再初の癌発見前の数ヶ月間もひどい不眠で、其の後の再発時の多くは発癌前数ヶ月間の不眠が有りました)と同じ状態なので癌が再発し兼ねないと思い、S・K病院の近くのAクリニックという精神科を受診しうつ剤2種とハルシオンとレンドルミンを処方して貰い暫く服用するうちにうつ状態は改善されてきましたが睡眠の方は相変わらず不満足状態だったので其れを訴えたところサイレース1mg錠に変えてくれましたが其れもたいした変わりも無く、度々お願いするのも気が重い訳ですが思い切って薬を変えるか増量をと願い出たところサイレース2mg錠に変更して呉れました。がそれでも症状の改善は殆どありません。其れは当然のことでこれらの睡眠剤は長時間作用型ではなくレンドルミンは短時間型、サイレースは中間型といわれる持続性の短いものだったからです。ラジオ波治療でK.H病院に入院中に担当研修医に不眠で悩んでいるので此処の精神科で診て貰いたい旨を訴えた処承知して呉れて、翌日看護助手に案内され精神科に連れて行かれ、数分待つと名前を呼ばれ入った部屋は普通の診察室とは雰囲気の違う感じで診察の先生もなんとなく偉い地位の感じでしたが、私はこのチャンスを逃したらいけないと思い釈迦に説法を承知の上で必死になり不満足な現況の睡眠のデメリット、肝臓や免疫力に及ぼす悪影響、裏を返して云えばレム睡眠とノンレム睡眠が両方得られる謂わば長時間作用型の薬の所望をしたのだが、ベンザリンという中間作用型の薬が追加されただけだった。
 ~以下次回に続く

2008年5月14日 (水)

前回のS8部分のCT検査結果に付いて

前回(1/7)のS8の異変が認められた部分のCT検査の結果を今日の診察で、検査画像をパソコンで拡大画像で見せて貰いましたが、何と前回と画像に変化が認められず、治療入院を覚悟して行きましたが、ホッとしました。何時もは変異が認められると3ヵ月後にははっきり形に表れるのですが、何故なのか?いずれは形になるのだろうが、先延ばしになる事は治療すれば大なり小なり、肝機能に悪い影響を与える事なので喜ばしい事です。次回のCT検査は3ヵ月後なので、その間は一応癌の事は頭から離れるので、次回のブログは自分が嘗て長期に亘り苦しんだ胃病と現在も苦しんでいる睡眠障害に付いて、マイヘルスに掲載するつもりです。同病で苦しんでいる方も多数居られる事と思いますので、どの程度参考になるか分かりませんが覗いてみて下さい。

2008年5月10日 (土)

ブログのタイトルをHCVの交流記とした訳

7回目の再発を前回お知らせしましたが、皆さん、私は何回くらい再発し、死に至る と思われますか?   分かる訳無いだろうというのが大方の意見だと思います。現時点で私が知っている限りでは計29個の癌を20回にわたり治療した方が最高です。其の方は女性で70台半ばで、現在も普通に生活出来ているそうですから、まだまだ延びる可能性は充分有りそうですね。女性の場合は一般的に云えばタバコは吸わない方が多いし酒も男ほどは飲まないと考えられますね。つまり、ごく一般的な常識から云って、癌を引き起こす(きっかけを作る)原因物質の肝臓癌に於ける二大要素の摂取量は男性より少なく、特に肝臓癌は総飲酒量が大きく関係するという専門医もいますので、男性が此の女性の記録?を抜ける可能性は少ないでしょうね。さて、私のことに戻りますが、今の肝臓の状態から自分の肝臓病の知識を総結集(チョット大げさな言い方ですみません)したところ、あと3回位、欲目で5回、K大H病院の治療記録は12回だとか云っていたから後5回頑張ればタイ記録になるんだがな、などとツイツイ人間の浅ましさ丸出しになるおバカさんなhide-Gなのです。さて、タイトルを「交流記」とした説明をさせて頂きます。初めてインターフェロンの治療を受けようとした時には癌が見つかり、此の当時は癌経験者は保険が適用されません。自費治療には数百万掛り、わたしは1b型の直りにくいタイプなので金無し、直りにくしで断念。2度目の肝癌直後に1度の癌経験者は保険適用となるタイミングの悪さ。此の時点でインターフェロンの治療は諦めたのです。残る道は一つ。HCVのご機嫌を伺いつつ反感を買わないように穏やかな作用の強ミノを週三回静脈注射とグリチロンと途中からグラケーを服用しつつ、現在、アルブミンはかろうじて基準値の3.8を維持し、血小板は10~11万台ですが、コリンエステラーゼは基準値から大きくダウン。GPT,GOTは共に平均60位。γGTPは75位。こんな感じで推移しています。だらだらと書いてきまして済みません。結論は闘う治療(インターフェロン)からHCVと共生してなるべくHCVの機嫌を損ねない付き合い方ということで交流記とした次第です。                            最後になりましたが事情により、当ブログは今回をもって閉じさせて頂く事になりました。まことに短い期間でしたが、ご訪問有難う御座いました。また、いろいろな情報や暖かい励ましを頂き今後の心の支えにしてまだまだ普通に生きていけるよう頑張ります。HCVで種々の治療の皆様の全快を心よりお祈り申し上げます。またいつか会えるまで~
さようなら

2008年5月 9日 (金)

7度目の再発

2007年4月にS8の塞詮術による治療後は3ヵ月毎にCT検査で経過観察していて、昨年9月3日の検査画像に異常は認められなかったのですが、今年1月7日のCT検査画像に変化が見られました。S8の治療痕の形の変形が認められたのです。つまり、前回の塞栓で死滅せずに生き残ったがん細胞が血管新生に成功したか若しくは偶々、前回の癌に隣接して、新たながん細胞群を形成しつつあるのかは現時点では判明しませんが、癌が再発し、増殖中であることは間違い有りません。4月1日に再度、CT検査し、4月7日の診察日に入院日が判ると思います。              昨年10月中旬頃に10年ぶりに風邪をひき、厭な予感がしていたのです。実は10年前の最初の癌が見つかる2,3ヶ月前に2度も風邪をひいていた過去が有りました。私は普段は風邪には強い方で、巷で流感が流行っていても先ずひかないのです。ですから風邪をひいた時に、10年前の事が頭をよぎったのです。ゲストブックを書いた時(12月11日)も風邪の後だったのでそろそろ7回目が間近かな?と表現したのでした。が、こんなの的中しても嬉しくないですね。

2008年5月 7日 (水)

6度目の再発~3度目の塞詮術

2006年10月に癌の栄養を供給している動脈が特定できず、リピオドールと抗がん剤ファルモルビシンを注入して経過観察していたS8に翌年2月19日のCT検査で12,3mmの癌が確認されました。今回も楕円形状の陰影も濃淡が有る私としては嫌な感じのもので、診察日の2月26日に4月2日(月)の入院で翌日に塞栓治療と決まりました。入院生活のこまごまとしたことは何時もと変わり有りませんので省略いたします。治療は9時半からでした。治療室に向かう途中に私が『前回は割り込みが有って午後に廻されたんだよ』と話しかけたところ、『え~、あれは○○さんだったんだ~、あのような事は初めてだったんですよ』と応じたので、待つのは全然構わないけど2度も痛い注射は此の痩せた身体にゃきついんだよねなどと話すうちに治療室に着き、また痛い麻酔薬を打って治療台に移動した時に治療担当医と思しき人が見えたので挨拶すると『僕ですよ。先生ですよ。』と言うのでよく見てみると担当主治医のO先生で、事前には聞いていなかったので吃驚しました。ごく一般的には放射線科の医師が治療にあたるのでその様な技術も習得していたんだと、チョット驚きでした。アシスタント兼後見役と言う感じで前回、生死にかかわる云々と治療の時間の交代をお願いされたO先生の先輩格のX先生もあとから入室されました。術中はモニターも見えない(病院によっては患者にモニターが見れるように大きな画面のモニターを設置しているところも有る)ので、ふと入室前の看護婦さんの○○さんが初めてだったと言う言葉が妙に気になり、そういえば今迄の人生で余り他人(ヒト)が経験してない事を自分の場合良かれ悪しかれ経験している気がするな。タバコを吸わなくなった2001年9月11日の事が鮮やかに甦ってきた。その日は日曜日で22時半頃1箱の最後の1本を吸い何時もなら明朝一番の一服に備えて必ず近所の自販機で11時前まで行って必ず買っておいたのだが、この日に限り、何故か買いに行こうと思わなかった。そのまま眠りにつき、朝目覚めた時必ず吸いたくなるのだが、何故か強くは身体が要求しない。時折手持ち無沙汰になった時チョットだけ吸いたい気持ちになるが、特に苛立つ事も無く夜になり23時ごろだったろうか。テレビには想像を絶する映像が流れているではないか。私はこれまで禁煙など考えもしなかった。が、世界のあるところでは自分の意思に無関係に一瞬にして尊大な多くの生命が奪われ、非業の最期を遂げている人々を見て、もっと自分の命を大切にしなければという思いが強くなったせいか、そのまま苦も無く禁煙出来たのでした。隣町に住む弟達が遊びに来た或る夏の日に冷房の為締め切った部屋でタバコを吸い始めたので思い切って注意しました。俺もお袋もタバコを吸わないので副流煙が周りに及ぼす影響は大きいので今後は室内で吸わないで欲しい。で、ないと俺の禁煙の意味が無くなるのでと言ってからは吸わなくなった。そんな事を考えているうちに「○○さん終わりましたよ」と声を掛けられ、我に返りました。一週後CT検査の結果、翌日退院となりました。CT画像を見た時に前回のS5の画像のような塞詮術の見本のようなモノとはチョット違った感じだったので『寛解』と言う感じでしょうかねと話しかけたところ、『うん』と言う感じでO先生は応えました。いずれにしても前回は特定できなかった動脈が特定でき塞栓の道が開けたと云う点で進歩したという評価だと思います。

2008年5月 6日 (火)

5度目の再発~2度目の塞詮術

前回の塞詮術で現在肝臓癌の治療の主流となっている肝切除、ラジオ波、塞栓術の3大?治療を経験したわけで、野球ならトリプル.クラウンといったところですが、これは自慢にならない体験であとはどの治療法を何回積み上げていくか、何回まで癌治療に肝機能が持ちこたえられるかが今後の焦点になりそうです。         前回の治療後の3ヶ月過ぎにS8(右葉の上部肋骨側)の中心部付近にCT検査で異変が見られ、エコー検査では肋骨が障害になり、画像では確認できず、暫くCT検査で経過観察をしていたのですが、其れまで主治医のK先生が辞めることになり、私の後任医師が誰になるか話題になっていると言う話をS.K病院のA医師が、K大H病院消化器内科に勤務する大学の同期生から聞いたとA医師が診察時に話して呉れました。前の主治医K先生は辞める前に後任は2度目のラジオ波治療の際の研修医だったO医師が担当しますと伝えてくれ、自分は都内に有るJ大病院(の消化器内科の部長クラス若しくは、J大の教授か准教授に所謂、ヘッドハンテングされた様子です)に転勤になると表現していました。                                     後任のO医師は研修医時代の私の担当だった時、退院前のCT検査の画像に患部から背中に掛けて白い帯状のものが映っていて、担当
主治医は夏休みで留守で自分で退院の決断をなかなか出来ずにいて、(決断を)私が催促した経緯が有りました。2度目のラジオ波治療の記事では省略しましたが原因はラジオ波治療後にエタノールを2cc注入したものが局部から溢れて肝臓の皮膜伝いに背中に廻った炎症痕と推測されます。そんなエピソードもあり、また人柄もよさそうな青年医師でしたが、患者として最初の診察はお世辞にも合格点にほど遠くむしろ呆れた位でした。「以前はどの位の間隔でCT検査していましたか?」との給ったのです。間隔は時と場合に拠るので一概に言えるものではないのは今迄学んできただろう。1人前の医師になったのだからケースバイケースで自分で判断しなさいと言う意味で私は聞こえないふりでシカトしてました。自分で言うのも可笑しいですがそんなに意地悪な人間じゃないつもりです。暫く考えた後3ヵ月後にCT検査をすることになりました。      次回の診察時からは人が変わったように、全く1人前の医師に見えるようになりましたが何が彼を変えたのか知る由は有りません。 3ヶ月毎にCT検査の度に前述のS8にはっきりとは写らないのですが造影剤が所々にうっすらと見えていたので、前がん症状という感じだったのでどうせなるなら早くはっきりした形で出て欲しいと思う憂鬱な気分で過ごしていました。人の心理は不思議なものですね。癌と判定されれば却ってすっきりするのです。とうとう8月の中旬のCT検査で形を現したのです。しかもS5(右葉下方の腹側)に仲間を引き連れて。S5の方は全く予想外でした。もしかしたら、CTスキャンの5mmの死角に2,3mm位のものが出来ていた可能性も否定できません。大きさはどちらも10mm位でS5の方は同心円状のまん丸に近い形で陰影も濃く出ていましたが、S8の方は楕円形がかって、陰影も濃淡があり、余り癌相?が良くない感じを素人乍感じました。今回もラジオ波は適用出来ない所なので、塞詮術でやるのですが、この方法は局所がある程度大きくなって栄養を供給している動脈を特定する必要があるので治療時期の読みが微妙なのです。(肝臓癌は初期は動脈、門脈から貪欲に栄養を貪る)O先生が治療時期に迷っている様子なので、冗談めかして私の過去の経験からS5は2ヵ月後位に20mm位の塞詮術に丁度いい大きさに成長しているのではないでしょうかと話したところ、先生も経験豊富な○○さんがいうのだからそうしましょう、とその場で入院日は10月16日に決まりました。O先生には経済的な事情も気楽に話せ、其れまで金曜日に入院し翌週月曜か火曜日に治療というパターンだったのが月曜入院の翌日治療とか、高額療養費の還付金に無駄が出ないように月をまたがない治療期間の設定等をお願いしたら、快く応じて頂き此の日が入院日と設定された背景も有りました。どの先生もこちらの意向どうりだったら嬉しいんですけどね。手術当日は9時半の治療開始に準備万端整えて治療室に入室後に左肩に麻酔薬を打たれ、手術台に移る直前にスタッフ全員がいなくなりました。何が起きたんだろうと思って数分後に、私が始めて此の病院の外来に来た時のK先生の代診をした先生(S.K病院のA先生の同期でたまに此のブログにも登場する先生だが名前は知りません)が現れ、「まことに申し訳ないですが生死に関わる患者さんがいてすぐ処置をしないといけない状態ですが他に処置する場所も無いので譲ってもらえませんか?」と頼まれたので「私は結構ですよ」と言い、同日午後2時半から仕切り直しとなりました。            今度は時間どうりに始まり先ずS8から取り掛かったのですが、栄養を供給している動脈が特定できず、抗がん剤ファルモルビシンとリピオドールを注入し、S5に移りましたがこちらは患部の直近までカテーテルが入り、塞詮術の見本のようにうまくいった様子でした。1週間後にCT検査の結果、退院となりました。S5はきれいに死滅したようですがS8の方は抗がん剤のせいで治療前の陰影もより薄くなったが癌が消滅した訳ではないので経過観察しながら、塞栓の機会を待つしかないようです。

2008年5月 5日 (月)

4度目の再発~始めての塞詮術

前のラジオ波治療の5ヶ月後、2005年1月にエコー検査でS6に異常が見つかりCT検査の結果12mm位の癌が見つかりました。S6は肝臓の右葉の下方背中側を大まかに言うのですが、局部はS5とS7とS8に接する感じで右葉のほぼ中心に位置していて、ラジオ波治療の難しい位置とのことで、処置の方法は塞詮術を選択せざるを得ませんでした。塞詮術なら紹介元のS.K病院でも治療可能なので、此処に留まるべきか、この際帰るべきか悩みましたが、結局治療の選択肢の多いK大H病院に留まり、3月に鼠蹊部からカテーテルを入れて塞詮術を受けました。此の時点で肝臓癌の治療はK大H病院で診て貰い、癌を除く肝臓病全体の治療や他の内科疾患はS.K病院とはっきり分割した形になりました。一番最初の癌の時に鼠蹊部からカテーテルを入れて血管造影の経験があるので、全く不安はありませんでした。前の通り自分で剃毛し看護婦さんはチェックするだけで、手間を掛けさせないように何時もやっています。6時間はカテーテルを挿入したほうの足は動かさないようにし、6時間後に食事もとれ、12時間後はベッド上に90度起きれます。24時間後にベッドの周りを歩いてみて異常が無ければ普通の生活に戻れます。この治療の欠点は局所再発率が1割前後あることです。しかも局所再発した場合はこじれる事もあるらしいのです。入院期間は概ね、10日間位ですから、ラジオ波治療と入院日数や治療費も似たような感じです。此の頃から癌の再発に怯えて暮らす事は無くなりました。癌の再発に慣れた所為ではなくHCVに付いて多くの媒体を通して理解というか、認識が深まった結果と言う感じがします。                                          入院する度に宅配メールのアルバイト(此のバイトは何十箇所も面説に行きやっと採用されたところなのです)を休ませて貰うのが此の3年続いていて、其の申し入れをする方が癌の宣告より気が重い感じさえする今日この頃と言う感じでした。

2008年5月 4日 (日)

3度目の再発~2度目のラジオ波治療

2003年1月の再発以来、2ヶ月おきにエコー検査とCT検査のローテーションで経過観察をしていました。この間にビタミンK2(商品名=グラケー)を新たに処方して貰って現在も飲みつずけています。此の薬はもともとは骨そしょう症の治療薬として普及していたものですが、佐賀医科大の臨床研究で肝臓癌患者に二群に分け投与したグループは内服しなかったグループに比して、三分の一の再発率に減少された。これとは別に東大消化器内科でも肝臓癌への有効性に付いて2002年後半の読売新聞の記事を読み、前回の治療時に病棟薬剤師に相談した薬がこんなに早い時期に主治医のK先生から服用を勧められたのは正直に言って驚きでした。副作用も無いと当時の新聞も報じていたので、即座に承諾した次第です。2004年6月末頃のCT検査で前回(S8)に隣接した右脇腹の腹膜に近い部分に癌が認められ、8月初旬に前回同様にラジオ波治療を受けました。今回は腹膜に近いのでニードル(焼灼用針)の熱で腹膜を火傷しないように生理食塩水を800cc程内臓と腹膜の間に注入しましたが、その影響でやや息苦しい感じでした。術後には勿論注入物を抜くのですが。院内生活やその他は前回同様取り立てて変化は有りませんでした。あっ、そうそう。たいしたことでは有りませんですが、ある日の夕食にじゃがいもが1個丸ごと煮たつもりのものが出てきました。ところが、箸はささらず、噛み付いても歯が立たずで全然食べられませんでした。私はたかが、じゃがいも1個の事ですが、むらむらと怒りがこみ上げてきました。それと言うのも、看護師や研修医の医療従事者の真剣な仕事ぶりや忙しさを毎日観ているので、そのような努力が栄養部のずさんさ、無神経さ、そして何より仕事の緊張感の欠如,等で病院の信用をも失墜させる行為に腹立たしさを感じたのです。早速、献立表の用紙に苦情を書き、配膳の係りのおばさんに栄養部の責任者に来て欲しい旨、伝えるように頼みました。程なくして其の責任者が現れました。私は開口一番『あなたが毒見をしたの?』と思わず言ってしまい今時『毒見』と言う表現は無いだろうと可笑しくなったのを堪えました。『はい、私がしました』と責任者と名乗った女性。私が試食したのは煮えていましたので、と言うので、何百人か何十人分一度に作るか知らないが、大量にしかも丸ごと1個煮たら煮ムラが出来るのは素人でも予測できる事で、管理栄養士たるあなたがそんな初歩的な事に考えが及ばないとは。何故満遍なく火が通るように半分にするとか、半分にすると煮崩れるとかあるでしょうが、口に入らない事には栄養以前の問題でしょう。と,こってり絞り上げ、(今日のことは)今後の課題にして下さい。きつい事を云いましたが他意は有りませんので。と言ってやっと釈放?となりました。翌日、病棟の婦長が昨日の不始末をお詫びに来ました。その後、今日時点で3度程入院しましたが、ジャガイモは大きくて半分切、または四分の一切りで勿論火は充分通っているものが出るようになりました。

2008年5月 3日 (土)

初めてのラジオ波治療 ①

 2003年1月8日(確か金曜日)A.M11:00迄入院手続きを済ませ、其の後にレントゲン検査と耳たぶを切って止血時間の検査後、入院病棟に行き、クラークに挨拶後にベッドに案内され病棟内の案内や説明をうけたのち、担当看護婦が来て1日の院内での行動手順や注意事項の説明を受けました。このK大附属H病院には当時一般患者用の無料ベッドは無く、一番安いベッドで1日6300円でした。保険適用病院には規定数の差額無料ベッドが有る筈なので、その点を入院受付で聞いたところ(無料ベッドは)精神科の患者さんに優先的に提供されていると聴いた様な記憶が有ります。正月草々なので病棟内のベッドは半分以上空いていました。隣のベッドのSさんという方は私より三日前に入院し翌日治療ラジオ波治療を受けたそうです。この方はこのラジオ波治療で極稀に有るニードル(治療用針)に因る火傷で苦しんでいましたが治療した担当医は顔も見せないので、温厚そうな方でしたが誠意が無いと怒っていました。                                             この治療法は正確に表現すると経皮的肝熱凝固焼灼術で所謂ラジオ波治療と云われ、其れまでの諸治療に比べ、優れた点も多く、注目を集めつつ有ったのですが、まだ保険適用されていませんでした。にも拘わらず多くの医療機関が間違いなく治療実績を競っていたと思われる背景には多分、従来から有る治療法のマイクロ波に治療が似ていて、治療機材他1式の治療費が同じ位のレベルだったのではと私は推測します。またレセプト審査機関も其れに気ずいていても暗黙の了解がはたらいていたかも知れません。当時(今でも変わりないと思いますが)全国一の治療実績は東大医学部で、神奈川県では私が今回治療を受けるK大H病院が1位で其の先頭で此の治療に取り組み、医学生や研修医の指導に当たっていたのが、私の担当医でK大講師のK先生だったのです。                                                   翌週の月曜日の午後から治療が始まりました。今回、私の治療は治験治療ということで、治療機材提供メーカーの関係者と思しき人が立ち会っていました。焼灼用の電極針(3種類あり局部の場所や大きさにより使い分ける)や薬品代、術後の1回目のCT検査の費用はメーカーに負担して貰えるというラッキーな面がありました。今回の治療には2種類の電極針(ニードル)が使用されましたが、1本目は2次電極が何本のタイプかは聴かなかったので分かりません(電極は局部に穿刺後開くようになっている)。2本目は通称クールチップ(針の内部を冷却水が循環し一定温度に保ち火傷を防ぐ構造)と呼ばれるタイプで左側にいる看護婦さんが私の右側で治療しているK先生に渡す際に見えたので、『其れはクールチップと言うものですか?』と尋ねたところ『どうして知っているの』とK先生が尋ねたので『(肝臓癌の)酢酸療法を考案された大西先生の著書で知りました』と答えたところ、K先生が何処で見たか尋ねたらしかったのですが右耳の悪い私が返答しなかったので看護婦さんが『何処で見たのと聴いていますよ』と言って呉れたのでS図書館ですと応えました。治療は穿刺時はチョット鈍い痛みが有りましたが耐えられないものでは有りません。1時間半位の治療時間だったと記憶してます。肝生験程度の痛みと言うか、苦痛程度であとをひきません。此の治療法は塞栓術に比べて局所再発が少ないメリットがありますが、デメリットは正常な周りの細胞や熱で壊死する範囲の全ての血管類も傷める事に有るとおもわれます。多少のデメリットは従来のエタノール局注療法や塞詮術をも凌ぐものです。                               ベッドに戻り6時間が経過した頃に寝た儘で食事を取りました。夜間に微熱が有りましたがたいしたことも無く眠りにつきました。1週間後にCT検査の結果で翌日、退院出来ました。入院中は研修医が殆ど主治医のアシスタントをし、主治医のK先生と顔を合わせたのは治療の時だけでした。此の病院の病棟看護婦さん達は総体的に明るく好印象で仕事ぶりも的確な感じでした。此の時は12日間の入院生活でしたが、入院翌日と治療した週末の2日外泊したのでアッという間で時間の経過をあまり感じませんでした。  

2008年5月 2日 (金)

『HCVの諸問題に付いて』

このブログ「hide-GとHCVの交流記」も開設以来早10日を過ぎました。地味な内容や稚拙な文章、で余りインパクトが無い所為か、訪問してくださる方も少ない方のNO.1のようですが、それだけに尚更にご訪問者各位に御礼申し上げる次第です。ゲストブックに書いた通り、此の記事を読んで私の様に1人でも延命に協力出来れば私の最大の喜びですが、いかんせん訪問者が少ないのでは私のブログ開設の意図が達成されないので、悩んでいるところです。HCVの潜在的な患者数は全国で150万人とも200万人とも云われており、其の内で、治療を受けている患者数は50万人位と言う説も有ります。近年,フィブリノゲン問題の裁判と共に政府も肝炎対策に本腰を入れつつありますが、私は10年前に厚生省(日本医師会、日本肝臓学会なども政府に対し強力に働き掛けなかった意味で同罪)が手を打つべきだったと当時から感じていた。HCVの感染源は種々有るが、一番多いのは輸血のケースではないかと思います。1988年米国でHCVの核酸RNAを発見し、1994年、東京都C型肝炎プロジェクトチームが、世界初のHCVの粒子を電子顕微鏡で撮影に成功したそうです。私がHCVに感染している事を自身が認知したのは1997年で最初の肝臓癌が発見されたのは1998年です。此の当時から、もっと厳密に言えば1992年には輸血や予防接種の同じ針の使い回しなどが原因と少なくとも肝臓の専門医は認識していた筈です。医療関係者の針刺し事故で劇症肝炎の問題が取りざたされたのも此の時期です。此の問題を日本医師会や日本肝臓学会は当時の厚生省に働きかけ、厚生省も速やかに動いていればもっと多くの人たちの慢性肝炎や肝硬変、肝臓癌などが食い止められた筈で、一時的な費用は掛っても長期的視野で考えれば、医療費に莫大な差が生じる事は素人でも分かる簡単な考えです。何がこんな簡単明瞭な問題の障壁になったのでしょうか?。不思議、不可解極まりない問題です。私自身はK首相時の医者出身のS厚生大臣に期待したのでしたが、駄目でしたね。まだ表題に至っていませんが夜も更けたので続きは今日書き足します。(ここまでは今日未明の記事です)                                           一晩寝て気が付いたのですが昨夜「簡単明瞭な問題の障壁」と表現したものが感じられました。其れは、アメリカで承認が取り消された非加熱製剤フィブリノーゲンが日本ではフィブリノゲンとたった1文字詰めた表現で厚生省が認可し、製薬業者が製造販売し、医師達が使用した事からHIVやHCVといった取り返しのつかない事態を招いた訳だから、医師会は国に対し意見を具申する立場に無く、国はこれら(HIVやHCV)の諸問題を認めると政治的大問題になるし、製薬業者も国から承認されているとはいえ損害賠償を追及される恐れが有るので三者共頬被り
してなるべくHCVの話題は避けて通ってきたのだ。が、HCVが蔓延し始め肝硬変から肝臓癌と移行する患者が多発する一方で、フィブリノゲン裁判では原告側に有利な判決または調停案が提示され、トボケ切れなくなった。という見解に至ったのだが果たして真相はどうなのだろうか?    という事でタイトルの事に話が及ばなかったので今回のタイトルは「HCVの諸問題に付いて」と真に勝手乍変えさせて下さい。               
大事な事を話し忘れましたので付け加えますと1992年前に輸血した方で、もしHCV検査を受けていない方は1日でも早く受けて下さい。あなたの為、あなたの大切な家族の為に。                   あと1つ「HCV」の特徴について大まかに説明させて下さい。HCVは空気感染は勿論、傷の無い指で仮に血液に触れても感染はしない、余り感染力の強いウィルスではありません。普通の性交渉でも感染する例は殆ど無いそうです。HIVも当初は一般の理解が得られず不当な差別を受けた過去が有りましたが、HCVにつきましても正しい認識をお願いする次第です。ちなみに私は91歳の母親と2人暮らしで、洗濯物に血が付いていても一緒に洗濯したり、料理中に指を切り血が料理の素材に付着した可能性も多々有りますが、母親はHCVに感染してはいません。勿論A型やB型のようにワクチンが未だ開発されていない現状ですから慎重を期すに越した事は無いとは思います.。

2008年5月 1日 (木)

再発に怯える日々 ②

初めての癌から2年目の1999年4月にやはり前年同様に、S.M大医局から派遣?された研修医あがりと思しき若いN医師に変わり、前に書いたローテーションで治療を受け、大過なく1年が過ぎ、2000年4月にまた研修医を終えたばかりと思しきA医師に変わりました。私の知る限り少なくてもここ3年間はS.M医科大出身者なので、今度の担当医師も同じ流れじゃないだろうか?と思い込んでしまいました。半年ほど経過した頃、予てから治療を受けたいと思っていたヘリコバクターピロリ菌の除去治療が保険適用になり、其の治療を受けたい旨申し出たところ、「○○さん胃が悪かったっけ?」と云われ唖然としました。赴任以来、半年間に及び胃の薬(ガスター、ムコスタ、セルベックスの3種類)の処方箋を書いていたのに其れは無いだろう。数多く患者を扱っているから誰に何を処方したかを覚えていないのは無理も無いが、カルテを確認しろよ!!。悪く無かったら治療したいと常識的に云うか?。私は検査の方法を尋ねた。ピロリ菌の確認方法は内視鏡で組織を採取(し培養法他の検査方法)する方法と、UBT(尿素呼気試験)や血清抗体測定法などの簡易試験があり、其れを尋ねたのです。すると、どこかに電話してなにやら確認している様子に呆れてしまい、どうせ来年になれば、また新しい先生が来ることだと思い、其の時はピロリ菌の治療を見送りました。早くあと半年過ぎないかな~と思いながら過ごした1年でした。  
2001年4月に入り例年の人事異動通りなら他の医師に替わっている筈なので、どんな担当医かな?と興味津々でしたが4月始めての定期診察は何と前年同様A医師ではないですか。あと1年もすれば替わるだろうと思ったのが私の浅はかなところで、翌年も、其のまた翌年も交代無く何と丸5年した翌年には医長の肩書きがつき、7年目には消火器内科副部長という地位まで出世し、現在も私の担当医です。2002年10月のエコー検査でS8に(癌と)疑わしいモノが見つかり、CT検査の結果、疑いは更に強まり、MRI検査をして最終判定しようと言うことになり、MRI検査の画像にはエコー検査やCT検査で確認された同じところに鮮明に白く映っているでわありませんか。A医師は画像を背にして腕組みし押し黙った儘でした。私はその場の雰囲気から何か喋らないといけない感じで思わず『間違い無いですね』と発してしまい、A医師 はうなずくばかりでした。手術はその後遺症でこりごりだったし、もし手術の後遺症で苦しんでいる時にまた再発でもしたら精神的に耐えられないので、他の治療法の選択肢は無いかと尋ねたところ、K医師の出身大のH病院でラジオ波治療をやっていると言うので『ラジオ波治療はまだ保険適用になっていないでしょう』と問い返すと『保険適用外だが従来からあるマイクロ波療法の治療費で施術をして貰える』と聴き、一も二も無く飛びつき「すぐ紹介状をお願いします」と頼んだところ、快く引き受けてくれ、また大学同期の消化器科の先生にも話してくれた様子でした。此の1件でA医師に対する不信感が信頼感にやや変わりました。ややと表現したのは、此の頃でも次回の予約表を呉れるのを忘れたりする、うっかりミスがたまに有ったからです。紹介状とA医師から借りた画像を手に、11月の初旬に早速担当医師の診察日に伺いカルテにK医師名が書いてあったので本人と思い込みました。エコー検査は当日行い、CT検査とMRI検査を11月中に無理やり押し込んで貰い12月中には治療を受けたい旨、お願いしましたが、K大H病院の担当医K先生本人ではなく、S.K病院のA先生の前述の同期生が代診だったことが始めて分かり治療の日程は後で連絡という事になり、のちに入院日は1月8日と決まりましたが、S.K病院のエコー検査から日にちの経過がかなり気になりました。

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