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ブログ紹介文

十年前に或るきっかけでHCV陽性と判明。時を同じくして夕刊T紙でHCV特集記事をみてインターフェロン治療を受けようと総合病院を受診、精密検査のCT画像には12mm大の肝臓がんが発見され、担当医の出身医大付属病院で切除手術。癌の再発に怯えながらの毎日。手術後丸五年直前に待望?の再発。以来今年の4月迄で計6回の再発。そろそろ7回目間近かなと思っている昨今です。一生の付き合いなので大事に、真摯に交流していく様やHCVの怖さやHCV患者に対する偏見、誤解等 私なりの考えを述べたい。また自分の病気を元に医療全体の諸問題に付いても改めて考えていこうと思います。以上が当ブログの中心ですが、私の他愛の無い私生活(読みたくも無いか?)の一端もご紹介していきたいと思います。私の命が夕刊T紙に救われたように、この記事を見てHCV検査や他の精密検査の後押しが出来て1人でも延命出来れば、夕刊T紙や日頃お世話になっている医療関係者に少しでも恩返しが出来ることと、このうえない喜びです。

2008年7月14日 (月)

悲しい現実の中で…今の自分に問う。。

以下の記事は私が尊敬してやまないブログのお友達O女史が或るブログを訪問し深く考えさせられた記事だそうです。私もこの方と同じ様に感じ、出来るだけ多くの方々に此の現実をお伝えする手段として、私の主観は敢えて省かせて頂いてこの方の原文をコピーし、皆様にお伝えしたく思います。(以下原文)                                                ☆我が拙いブログにお立ち寄りくださった方のブログで、心に留まるメッセージに出逢いました。

その記事を拝読しながら、非常に心揺さぶられ、
深く考えさせられました。

今の日本は、物にあふれかえり、豊満(金満)大国とすら言われています。
そんな中、便利になり、溢れかえるモノとは裏腹に、
人の心は、と言うと、どこか寂しい風が吹きすさんでいるような
満たされない思いの中で、心病んだり、痛めたり、
または、人が人を傷つけたり、殺める、といった、本当に痛ましい、
心締め付けられる事件が、後を絶ちません。

世界では、貧困にあえぎ、飢餓に苦しみ、
個人としては、避けられない戦争などといった悲しい現実の中で、
明日の光さえ、見えない状況の下、必死に生きている人たちもいると言うのに。。。

前フリが長くなってしまいました。
以下、お邪魔したブログで拝見し、深く考えさせられた記事です。
(原文そのまま掲載させていただきました)


☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆


ヨーガや気功 太極拳など

健康講座へ通う道すがら

神社や寺 墓地などで見かけるのが

忠魂不滅や 軍神

英霊などの文字が刻まれた

碑や墓碑である。

近頃 モダンなデザインの墓も多くなり

和・やすらかに・慈光・愛・心・まごころ

などの文字が刻まれたものもあり

先にあげた墓碑などが

ひっそりと 忘れられた存在となっている

戦争で 人をより多く殺せば

英雄 軍神とあがめられた

不幸な時代が 我が国にもあった

だが 天や神もよくやったと

祝福したであろうか?

近年 かつて愛国少年であり

晩年は天下のご意見番的存在だった

作家城山三郎が逝き 

平和市民運動のシンボル的存在だった 小田誠が

ベットの上からも死を賭して平和を語り続け

涙に 声を詰まらせながら 亡くなった

大柄で少し猫背

トレンチコートが良く似合った小田さんとは

O市に公演に来られた折

うどんを食べながら語った思い出がある。

さて 以下に記すものは 今も世界の何処かで起きている戦争 

狂気を体験したある13歳の少年の言葉である

願わくは

教育に携わる方

ヨーガや気功 太極拳など

心身の健康を標榜する人々

そして 平和を愛するすべての人々に

是非一読していただきたく

遅ればせながらパソコン初心者の小生が

秘儀(?)を駆使して

かすめ取って来たものです

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 少なくとも、ぼくは2人の人間を殺した。

 AK47と呼ばれる小型武器で。

 小型武器とは、ぼくたち子どもでも扱える小さくて軽い武器のことだ。

 でも、この武器は僕らの国では作っていない。

 ぼくが使っていた武器は外国から入ってきたものだった。

 ぼくらのことをチャイルドソルジャー(子ども兵)と人は呼ぶ。

 小型武器を持って戦う兵士だからだ。

 でも、2年前までぼくはふつうの子どもだった。

 家族がいて友達がいて幸せに暮らしていた。

 ある日、大人の兵士が村にやってきてぼくを連れ去った。

 ぼくはその日から兵士になった。

 ぼくは人の殺し方を教え込まれ戦場で戦った。

 逃げようとした友達は大人の兵士に耳を切り落とされた。

 ぼくの目の前で友達が殺されていった。

 女の子は大人の兵士に乱暴された。

 怖かった。

 家に帰りたかった。

 お母さんに会いたかった。

 運よく、ぼくは大人の兵士がいないときに

 軍隊から逃げ出すことができた。

 村に帰ってきたが、友達は誰もいなかった。

 ぼくはみんなに「人殺し」といわれ学校ではいじめられた。

 家族や親戚からも怖がられ前みたいな幸せは戻ってこなかった。

 悲しかった。

 寂しかった。

 あるのは絶望だけだった・・・。

 ぼくは何度も死のうと思った。

 そして、何度も何度も自分自身に問いかけてみた。

 ぼくは何のために生まれてきたのか?

 ぼくはなぜ生きているのか?

 ぼくは生きる価値がはあるのか?

 ぼくにできることはあるのか?

 「もし、ぼくに何かできることがあるなら、ぼくには生きる意味がある 」

 ぼくはそう思った。

 ぼくに何ができるか?

 「ぼくとおなじ悲しみを、子どもたちに体験させたくない」

 ぼくはそう思った。

 ぼくには紛争の「悲しみ」を伝えることができる。

 ぼくには平和の「喜び」を伝えることができる。

 ぼくには、ぼくにしかできないことがある。

 今、ぼくは先生になってそのことを伝えていこうと思っている。

 ぼくの夢は学校の先生になること。
 
 むずかしいかもしれないけど

 あきらめずに夢を追っていきたい。

   
                                   ぼくは13歳 職業、兵士。の本の
                                      ウガンダの子ども兵からのメッセージより


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何か感じられた方、何か行動に移す人は100人に1人といわれます。

転載でも何でも結構です。その1人になってくれますか?


☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆


以上が、お邪魔したブログで拝見した記事です。。
哀しいけれど、、地球の裏側では、こんなことが
起こっているのです。。

この記事をコピーさせていただいたのは、
皆様に、どうかしてくれ、、と言いたかったのではなく、
こういう現実がある、ということと、
自分自身への自省の意味も込めて、
記載させていただいたのでした。。

2008年7月13日 (日)

1年半ぶりの新しい仕事への復帰

両親や兄弟達、特に次兄は鎌倉入院時には、何度も見舞いに来てくれましたが、何時も暇つぶしにと山本周五郎全集(新潮社刊だったと記憶しています)の内の数冊を、差し入れてくれ、入院中に全集(全約20巻位でした)が全て揃いました。勿論、私は全てを読破し、特に気に入ったものは繰り返し読み、以来、周五郎の大ファンとなりました。特に伊達藩の○○周防守(すおうのかみ)を登場人物に扱った小説で、長編ではNHK大河ドラマの初期の頃に平幹二郎が主演を努めた「樅の木は残った」の家老役の妻律は周防守の妹です。周五郎作品の殆ど全ての作品に登場する主役、脇役、敵役に関わらず、周五郎の慈悲深い人間愛や人生の機微に触れて、読み終えた後は何時も気持ちが洗われたような気分にされます。また、○○周防守の○○は私の姓でも有り、周防守が伊達家から隠居の地として与えられた松山は私の出身地の隣町(現在は合併して同市)です。この地を題材にした短編「月の松山」など、先にも話した通り、周五郎は好んで周防守を登場させ、其のいずれの作品でも家来に対し慈悲深く深慮遠謀の好人物として描かれています。私は周五郎の小説で、人生観が変わった様に思います。大怪我で将来はサラリーマンとして定年まで使って貰えるかどうかも分からないし、また自分の性格上、使用人として退職まで働けるかは私も自信が無かったので、若し、将来独立する際は尊敬する周防守に少しでもあやかりたく思い「周防」と言う称号を使おうと思いました。
 また、次弟の四男は休みの度(ほぼ毎週)に来て呉れて、私の寝たきりの足裏を長時間に亘りマッサージしてくれ、動かせない両足の血流の促進や脳への刺激をしてくれました。こうして多くの肉親や、転院後の主治医他の皆さんのお陰で人生の再出発をスタートしたのでした。          
 就職先には面接日の翌日から出社しました。社長は私と同じ年の当時29歳だったと思います。他の事務所の従業員は社長の両親、妹、他にこの業界のベテランらしき、所謂、この業界で言う技術者(正確には給水(及び排水)装置工事技術者、給水装置工事配管工と言う所轄する役所が認めた肩書きを持つ方と女の事務員さんの計7名で、他に現場の職人さん達がいました。私が入社した年にM市独自の水道から東京都に一元化された年でした。其れまでM市は3箇所の井戸水を汲み上げて供給していましたが、地番沈下の問題や将来の地下水の枯渇問題等を考慮し、東京都の水源確保も確実になったので一元化となったのだと解釈しました。水道工事をするにあたっては管理者に給水装置工事の申請をし、承認を得た後に工事に着手する規定があり、これをしないで管理者にばれた場合は当然、其の程度や事情により、罰則が適用される事になります。この工事の申請は先に挙げた2つの資格の内の何れかを所有している者しか出来ません。此処では其の業務を先のベテラン技術者が殆ど処理していた様子でしたが、私が勤め始めてまもなくこの方は近々辞めると聴いて、途方に呉れました。と言うのも入社以来、材料の名称や拾い方(数の数え方)などの仕事のイロハをこの方に教わっていたのです。但し、図面の書き方は、東京都の給水装置工事施工要領に基いて作成しなければならないのですが、この方も未だこれに慣れていなくて暗中模索という感じでした。其のうちにこの方が辞めたので、施工要領の本を読みながら図面書きを何度か繰り返し、或る日、初めて申請書類と共に私の書いた設計図面を有資格者の社長が申請窓口の担当者に提出した所、「こんな書き方じゃだめだ」と投げ返されたそうでした。        ~次回に続く~

2008年7月11日 (金)

父親の思い出 ⑤

左大腿部の再手術の経過は順調に進みました。35年前の記憶ですので多少の記憶違いが有ると思いましが、ギブスをはめている左足の特に膝から下の部分が痒くてたまらず、先生に訴えたところ、膝附近の部分を切り取ってくれました。其処から、竹の菜ばしを入れて掻いたときの気持ち良さは今でも鮮明に覚えています。その1ヵ月半後位に松葉杖をつき、先に手術した右足でベッド脇に立つように云われ、事故以来7ヶ月振り位に立ってみましたが、眩暈がしてすぐベッドに腰掛て、何度か繰り返す内に眩暈も治まり、ベッド上の視点と立ち上がって見渡す視点の違いは僅か、1メートル位なのに、立って見る人間の本質を取り戻した所為か、先に希望の光が見えた感じを喜びました。其れから間も無くギブスを外され、徐々に左足にも体重をかけながら松葉杖で歩き始めました。左足の膝関節はかなり痛い思いをしながら、何度も繰り返し繰り返し曲げる訓練をしましたが、余りにも固定していた期間が長かったので、70度くらいが極限の曲がる角度となりました。(正座は勿論、足を組んでも左足を上にするとチョット混んだ電車などでは他人の膝附近に当たったりするので、組めません。ですが、後に運転教習所でトランスミッション車に乗り、クラッチを踏んだ時は、それ程窮屈さを感じませんでした。)先生が手術前に説明されたように、3,5cm程短くなっていましたので、松葉杖を両手に持って歩く分には跛行が目立ちませんが、普通の杖だとかなり体が左右に揺れていましたが、ある程度の筋力が付いてきたら多少は軽減されました。其の後間も無くして退院し、其の病院から200メートルも離れていない母のアパートに同居し、週1回、多分肝炎治療の注射だと思いますが、1年ほど通院しました。此の頃の私が如何に自分の病気に無関心だったかが窺い知れることでしょう。退院して間も無くして、私達の住んでいる直ぐ近くの雑居ビルの工事をしていた父親は、仕事帰りに寄って晩酌をしていったり、たまに、其のビルの中にある小料理屋やスナックなどに私を誘って呉れたりして貰いました。後々考えるに、父親と外で2人きりで飲んだのは兄弟中で私だけだと思われます。普通の杖で歩けるようになった頃に、父が看板に水道工事店の募集が出ていたと教えてくれたので、早く自立の道をと考えていた私は、自宅から150m程の近場で通勤も楽なので、職種に関係無しに応募を決め、面接に行き、その場で採用され、翌日から通勤することになりました。仕事の内容は、上下水道工事の申請図面や道路工事を行う際の警察に提出する道路許可申請の図面の作成や申請書類の作成が取敢えずの、私の仕事と云う事でした。図面を書くことは工業高校の時に専門科目のなかで唯一100点近くの点数を貰ったもので、好きで、得意な分野でした。此の製図というものは普段の勉強は全く関係無く、教科書の図面をトレースしたり、教科書の図面を拡大して描いたりするだけのものです。但し、若干の根気と繊細さと空間判断力は必要です。あと、面接時に3ヶ月は研修期間で、3ヵ月後に給料の見直しをするといわれた記憶が私には有りました。が此の事が一番大きな原因で、此の会社は半年後に辞める事になるとは予測もしませんでした。    ~次回に続く

2008年6月13日 (金)

父親の思い出 ④

 はじめに手術した右の方は2ヶ月後にギブスがとれましたが、僅か2ヶ月の間にひざ関節がかたまり、屈折が出来なく、院長もリハビリの仕方を教えて呉れないので、聞くのも癪なので、父に頼んで30cm位の高さの横から見ると2等辺3角形の膝下があたる部分を2cm位切り取った形の物を作って貰いました。そして、先ず最初に熱く蒸したバスタオルをひざ関節付近に巻いてもらい、すぐ冷めないようにその上にビニールを巻きつけて、10分位温めたうえで、その3角形状の上にひざを乗せ、1kgほどの砂袋を2個作り、紐で結えて足の両側に振り分ける形でぶら下げて重石代わりにしました。最初のうちは苦痛でしたが、毎日、2回繰り返しやっているうちに少しづつ曲がり始め、30度位から90度までは割と短時間で曲がるようになりましたがそれからがまた大変でした。今度はやはり温めたのち自分で右太腿を両手で抱え、腰と太腿が曲がるようにし、スムースに曲げられるようになったら膝を抱え込みながら母に両足首を持ってもらい、軽く体重を懸けてもらう事を繰り返すうちに150度くらいまで曲がり、あとは足を折りたたんで自分の体重を少しずつ調整しながら繰返し繰り返し続けて、やっと180度、つまり座れる形になりました。そうこうしている内に、手術後3か月たって、ようやく替りの外科医が来て、また、レントゲン写真を一応撮りました。それを見た若い外科医は、多分「自分の手に負えない」と感じて院長と相談したのでしょう。院長が父親に「前に転院したいと言っていましたね。新しい外科医がここの手術施設では(再手術が)難しい様な事を言っているので、もし転院したいなら、結構ですよ」と言われたらしく、常識のある医者なら「うまくいかなくて申し訳ないです」位の一言が有って然るべきところをそのような殊勝な態度は一切無く、また、私の父も特に院長に抗議もしないで、両親の住む町の、前に書いた、父の仕事仲間の奥さんが婦長をしているM.I病院にこれも父の仕事仲間の大工さんのライトバンで、M.I病院に運んでもらい入院しました。病棟は増築したてのコンクリート造りの2人部屋で足の甲の骨折で入院したばかりの方と同室になりました。担当の整形外科医の先生は見るからに真面目で温厚そうな方でした。がレントゲン写真を見て、う~んと小さくうなり、「足が3cmチョット位短くなりますよ」と言い、その理由と手術の大まかな説明をしてくれました。全体的印象でこの先生ならなんとか歩けるようにして貰えそうだと感じました。手術は5時間位掛かりました。先ず、腰骨の一部を切り取ります。次に前のプレートを入れた部分にメスを入れ、プレートとビスを取り除き、楔形に折れた部分を其々切り落とし、次に大腿骨の腰側の方から骨の中の空洞を見極めドリルで穴を開け、そこから膝付近まで3角形の補強用の金属製の棒を差し込んだのですが、もともとぐらつかないように太め加減に作った所為で、最後の方は小槌で叩いても、なかなか思ったように根元まで打ち込めなかった感じで、その部分は冷えたりすると付近の筋肉が委縮するようで、普通に歩けません。先に腰から切り取った骨と楔形の部分の切り取った骨を砕いて、骨折した接合部の欠損部分に埋め込みメスを入れた部分の縫合で終了でした。5時間休みなしの先生はさすがに疲労の色が窺えました。この手術中に輸血に因るとおもわれる湿疹が瞬く間に全身に広がりましたが、単なる血液アレルギーだったようです。 この時期の父は仕事も多忙でしたが、病院にもよく顔を見せてくれました。   ~次回に続く

2008年6月11日 (水)

父親の思い出 ③

 昨夜の事故から意識が戻った私は手術台の側の母親の顔を見て、何が有ったのかは知らないが、何かしらの異常事態を察知し、思わず、母の手を握ってしまいまいたが、之は夢ではなく現実だと確認したかった。生きているのだと実感したかった思いからの行動ではなかったかと思われます。
其の後の母の話によると、未明に電話があり、支度を整え次第父親の運転で鎌倉に向かったそうですが、鎌倉は初めてで迷いながら朝方にやっと収容先の救急指定のO医院に辿り着いたそうです。電話では、両大腿骨と左手首骨折と怪我の状況は知らされたそうですが、出血多量で着くまで死んでいないだろうかと2人で心配し通しだったそうですが、着いて、医師から命に別状は無いと言われ、父はその日の仕事の段取りの変更と母の付き添いに必要な最小限の荷物を取りに戻ったとのことでした。其の日の夜に父は母の荷物を持って来てくれ、私には「何も心配することは無い」と云い、帰って行きました。其の後は父の仕事の休日の度に顔を見せて呉れました。また、タクシー会社との運転手の休業補償や、乗客が軽いムチ打ちを訴えていたので其の交渉や弁償金の支払い等を処理して呉れました。手術は内出血が収まるのを待って単純骨折の右大腿骨を始めに行いました。之は上手くいきましたが、問題は楔形に骨折し、皮膚の外に飛び出した(開放骨折の)左大腿部でした。此処の外科医は隣のベッドの付き添いの小母さんの話に拠ると、院長の妹の連れ合いで普段は何処かの勤務医で週2回、其れも午後だけの非常勤医師だと判りました。左の方は手術も難しそうなのでここの小病院(ベッド数10未満位の個人病院)ではなく、父母の住む、父親の仕事仲間の奥さんが婦長をしているI病院(整形外科医は院長の娘婿で勿論常勤)の方が信頼できそうだし、看護も近くて楽なので父が院長に転院を申し出たところ、院長は死にそうなのを助けて貰って於いて、其れは無いだろうと激怒され、父も一番弱い処を衝かれ、引きさがざるを得なかった様です。私も此の病院にはある種の危惧を感じていました。其の理由は1回目の請求書が内訳無しの一式と言う形式のものだったからです。幾ら個人病院でも自由診療であれ、保険診療であれ、一式と言う事は相手の言い値通りを支払えと云う事です。こんな悪徳病院は一時は嫌な思いもしますが、一刻も早く喧嘩してでも抜け出すべきと後で臍を咬みました。2回目の手術(左大腿骨)は昭和47年の12月中旬に行われ、1週後のレントゲン写真を見て驚きました。何と金属プレートが、骨から浮いているではないですか。つまり、腰側の骨と膝側の骨がくの字状になっていて、(有り得ないことだと思いますが)万が一この儘くっついてもひどい蟹股になるのは明白な儘、年を越してしまいました。そして、新年を迎えて松の内も過ぎた頃、其の整形外科医の姿をレントゲン写真を見せて貰って以来見えない理由を院長に訊ねると『ヨーロッパの方に留学したので、代わりの先生を探している』と言う返事が帰って来ました。当時、私は医学的知識や病院のシステム、等に無知な上に院長に強い調子で詰問できる勇気の無かった事が後々、悔やまれます。    ~次回に続く

2008年6月 5日 (木)

父親の思い出 ②

 今までの記事の中からは未だ父親の性格や母親や子供への接し方等、親父の人柄、人格を窺い知るような記述は無かったと思いますので、ここで、親父の性格を私なりに感じ、また人様の評価をまとめて云うと、誰もが短気で妥協を許さない(悪く言えば包容力が無い)人と言う事です(此の性格が多少の影響を及ぼしていたのだと推測するに弟子達が何人も来ましたが、1人前で年季をあけた人は2,3人しかいません)。どちらかと言うと精力的で女好きの傾向がありました。また、酒好きで機嫌が良い時は都都逸や民謡、特に「さんさ時雨」は何度か聞いた記憶がありました。声量があり、子供ながらに聞きほれた記憶があります。木材に墨付けをしている時なども鼻歌を歌っていました。良い点はう~ん、はっきり云って特筆するものが、余り浮かんでこないんですよね。2日に1回目を掲載後、今述べたところをどう表現しようかと、正直迷っていたのです。 失礼ながら、 之を読んで頂く方の感じ方に、私の親父の全体像を思い浮かべて頂ければ幸いです。
さて、上京後にどんな形で最初の仕事に有り付けたのかは知る由も有りませんが、母への仕送りはぎりぎり生活できる程度は有ったようです。上京後5,6年して親父が車で帰って来ました。母親は勿論、私たちも久しぶりの帰郷に喜び合いました。が、それ以降は送金は続いていたようですが、殆ど帰郷する事は無くなりました。どこでどう知り合ったのか、3,4歳の女の子持ちの十数歳下位の女性と共同生活を始めたらしい事を母が察知して、子供ながらに一所懸命働きながら、父親代わりも兼ねて子育てしている母親に子供達は同情し、そして大人になって結婚した時は其の相手に対し、母親の悲しみを味合わせることの無い家庭をつくろうと、多分、全ての兄弟達が思った筈です。其の証拠に、私の結婚した兄弟達はみんな、奥方にやさしく、料理や家事を手伝っています。そういう意味に於いて父は反面教師だった訳です。 末弟が高校を卒業した翌、昭和46年に母親も上京し、父親の住むM市にアパートを借り住み始めましたが、親父は相変わらず其の女性と同居していました。母親は多分、上京したら女と同居を解消し、自分と同居するものと思い込んでいたのではと思い、胸が痛みました。母親が上京した翌年、私は鎌倉市の由比ガ浜方面から江ノ島に向かう途中の稲村ガ崎の緩やかなカーブを曲がって、70m位先の信号待ちのタクシーに追突し、タクシーの屋根後部附近まで飛んで当たり、それから路面に落ちたそうですが、当たる前からの記憶は無く、気付いた時は病院で母親が側に立っていて、私は思わず母の手を握り締めました。
       ~次回に続く          

2008年6月 4日 (水)

NK細胞で移植後の肝癌防ぐ

正常な肝臓にある強い抗癌作用を持つナチュラルキラー細胞(NK細胞)を培養 投与することで、肝臓癌で臓器移植を受けた後の患者で、再び肝臓癌が出来るのを防ぐことに、広島大の大段秀樹教授(外科学)らが成功した。肝臓癌患者に移植を行った後、体内に残るがん細胞で、再びがんができる場合がある。                         
 大段教授らは2年前、移植用の肝臓に通した後の保存液から、強い抗癌作用を持つNK細胞を発見。2日間培養し、肝臓癌を殺す能力高めたNK細胞の投与を移植患者に始めた。      
 その結果、2000~2006年に移植を受け、NK細胞を投与されなかった患者42人のうち4人に再びがんができたが、細胞を投与した14人には現在、がんはできていない。     
 培養したNK細胞の表面には、肝臓がんを殺す働きを持つたんぱく質が多数生成されるという。   
 また、肝臓がん患者の7割以上がC型肝炎だが、培養したNK細胞は肝炎ウィルスの増殖を抑えるインターフェロンを作り出す働きも持つ。大段教授らが移植後の患者にNK細胞を投与したところ、何もしない場合と比べ、ウィルスの量を一時100分の1まで減らすことが出来たという。      
                     (6月1日付け読売新聞より転載)          
 此の記事に対する私の見解:NK細胞を投与した患者は14人で期間は未だ2年間、一方、投与しなかった患者は42人で期間は延べ7年を比較すると、統計学的には比較対照のバランスに欠けていると思いますので、もっと長いスパンでの検証が必要では無いでしょうか!?。ウィルスの量も一時的な要素も窺がわれ、ウィルス量は多いよりは勿論少ないに越した事は有りませんが、0(陰性)にならないと大きな期待は持てない感じがしました。移植患者さんの研究も大切な事だと思います。が、移植出来ない肝癌患者が圧倒的に多い訳で、此の研究を一般の肝がん患者にも役立つような研究も、是非とも早急に着手して頂きたいものです。

2008年6月 2日 (月)

父親の思い出

昨日(6月1日)は亡き父親の17回忌でした。お墓は田舎(宮城県の現大崎市という仙台から36km程旧国道4号を北上した「ささにしき」の本場の穀倉地帯)に有りますがお寺の住職さんの都合で前日の5月31日の11時より、私の兄弟(男ばかりの6人です)の8歳上の長男が仙台に住んでいて、其の長男の長男(甥)のそれぞれの連れ合いの4人が代表して法要を済ませてくれました。甥は福島の郡山から老父母だけでは寂しいと思い、わざわざ参加して呉れた様子でした。残りの5人の兄弟達は5歳上の次兄が千葉市に、私は3男で母親と神奈川県S市に住んでいて、年子の4男とまたまた年子の5男は東京M市に、5才下の6男は横浜市に其々住んでいまして、昨日は久しぶりに5人揃って我が家に集まり、焼香後に献杯し、6男が上等の寿司ネタを仕入れて握って振舞って呉れました。此の弟は大卒後から山一證券に勤務し、山一が倒産して解雇されるまで勤めていて勤務中の半分以上は海外勤務でしたので現在は其の当時の同僚がスイスでやっている投資会社の仕事をオールコミッション制でやっていて、外国人の友人が遊びに来た際は自分で寿司を握ってもてなしているようです。はじめに食べたときよりも最近は寿司屋と遜色無い程に上達しました。弟のお陰で私はハマグリの吸い物と鳥の手羽先料理を作っただけでした。                       
 話が脱線しましたが、父親の話に戻ります。父の職業は大工でした。私が物心付いた頃は学校などの木造建築の大工の棟梁として幾つかの現場をやっていました。勿論、元請ではなく地元の入札資格を持った工務店の下請けとしての仕事だったと思います。私は小学校に入る前は下の弟達が小さかった所為も有り、よく父親に付いて行き現場付近の泊めて呉れている民家に其の現場が終わるまで過ごした記憶が有ります。家から仕事場までは10k以上は離れていたと思います。交通手段は車などは殆ど走っていない時代ですから自転車でした。荷台には道具類などを積みますので、私は前輪とサドル附近に架かっているバーに横座りし、父がハンドルを持つ手で落っこちない感じで支えてくれるのですが、其の時、父の髭の生えた頬が私の頬にあたり、子供には痛く感じられ少々不快に感じた記憶が残っています。      
 我が家にとって大きな転機が訪れたのは、父が満41歳の所謂厄年と世間で言う年に父が血を吐いて1年余り入院生活を余儀なくされた事でした。私が10歳の頃になりましょうか。当時長兄は高3で今の兄嫁と交際していて、しかも結婚の約束までしていた様子でした。相手は1人娘で多少の資産家だったらしく、先方は婿としてなら許可すると言い、私の父親は長男を婿にはやれないと反対し、両家に気不味い感じが残りました。結局、長兄は高卒後国家公務員になり、再初の赴任地は仙台になり姓は変えずに勤務地には遠い先方に住んで通勤していました。ようやく病を終えた父は仕事を求めて東京に住み、仕事も得たようでした。    ~次回に続く           

2008年5月27日 (火)

BIGLOBEから私のブログサイトにアクセス出来ないのは何故か?

BIGLOBEから私のブログサイトにアクセス出来ないのは何故か?                               私の弟が“hide-GとHCVの交流記"で入力検索したところ”このホームページはウィルス感染の恐れがありますので、表示を中止いたします。※「ホームページウイルスチェック」については、こちらをご覧ください。”

というメッセージで開けませんでした。
ひょっとしてウィルス感染しているのではないでしょうか。と云うメールがあり調べた上、下記の返信をしました。                             返信①私のパソコンにはソースネクストのウィルス0(ZERO)
がインストールして有り自動的にアップデートされていてウィルスの進入余地は有りません。若し、進入したら自動駆除しますし、それに対応出来ない場合は隔離する様になっています。一応ウィルスチェックしてみましたが、検出されませんでしたので問題無い筈です。


返信②『ウィルス感染の恐れがある』というのは何が根拠になっているのだろうかね?何処のI.S.Pでも相当の確信が無ければ警告はしても、表示を中止するという事はインターネットの根幹に関わる問題でインターネット其の物が成り立た無い事です。ウィルスと云うリスクを或る程度承知してアクセスしなければW.W.Wが構築されない事は素人でも判る事です。私にはI.S.Pが意図的に確たる根拠も無しに他社のブログやホームページにアクセスさせない様にしているのではとさえ、勘ぐりたくなります。      私は記事中に具体的な固有名詞は普段は避けていますが、この記事は敢えてBIGLOBEを実名で取り上げました。これ(ウィルス感染の恐れ)についてどの様な判断基準があるのか、またこの(ヤフー)ホームページは何故ウィルス感染の恐れが有るのかBIGLOBEから明確な回答を貰いたい。またこのサイトを運営しているヤフーも謂わばコケにされたわけだからBIGLOBE側に厳重に抗議すべきだと思います。ヤフーのこの問題に 付いてのコメントを伺いたいと思います。またこの記事を見た方のご意見も寄せていただけたら幸甚です.

2008年5月24日 (土)

ヤフーブログ、またもや新規投稿直前にエラー表示、記事は消えた

 5月21日同様新規投稿記事を完成し確認画面を開いたら『投稿出来ない部分があります』の表示があり戻るをクリックしたらそのままフリーズしたとたんにエラー表示画面がでてまたまた苦労した長文記事は消えてしまった。このエラーは何とかならないのか?プロバイダのヤフーさん。これじゃ投稿意欲が失せちゃってもうがっくりだ!!この怒りをどこにぶつけりゃいいってんだ

*此の問題はマイクロソフト インターネット エクスプローラーに有るとマイクロソフト社から回答がありました。詳細は省略致しますが、知りたい方は、コメント欄に書き込み頂ければ、お知らせ致します。

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